ラングーン(ヤンゴン)市内の瞑想センター。
座って瞑想。
ときどき、ウトウト居眠りしているのが自然で宜しい。
こちらは歩きながらの瞑想。
こちらは一人で瞑想。
ちゃんと瞑想をすると、自分の妄想癖もちったあ治るかな?

ビルマを語るときに、大状況の政治・経済・国際関係などを
主に挙げる傾向がある。今回はちょっと趣をかえて、文学を、
それも女性文学の書き手の代表であるジューの語りから、
ビルマ社会を見てみよう。(文意を損なわない程度に、
ウエブ用に改行)
以下の抜粋は、ビルマ人女性であり、ビルマ国内に住ん
でいるジューの考えを紹介しただけで、もちろん違う考え方
もある。
ただ、これまで紹介されてこなかったビルマ社会の一面
であると思う。英訳のない、日本語訳だけで紹介された
ジューの説明を読めるのは、これは南田センセのおかげ
です。
--------------------------------------------------
『ミャンマー現代女性短編集』に寄せて
ジュー
【本書を流れるもの】
本書には現代ビルマの女性作家二十一名の作品が収め
られています。それはビルマの女たちの胸の中から発信され
た声のさまざまです。
作品は形式も表現も技法も内容もさまざまです。そして、
個々の作品の醸し出す芸術性もそれなりに優れています。
しかし全作品を通して、その底に流れる共通のものがあり
ます。
それは芸術や技法を超えて、読者をある場所へいざなう
力です。
その場所とは、男性優位社会のもとで抑圧された女たちの
証言の記録です。そこには話し手も聞き手もいます。では
判決を下す裁判官は不在です。
作品の女主人公は裁判官の存在を要求していません。
法的公正というものは、誰かに要求したからといって獲得でき
るものではありません。自らの努力で打ち立てるべきもの
なのです。ですから、女たちは感慨を分かち合い、励まし合い、
助け合いながら、姉妹的、同志的精神で手を携えて歩むの
です。
【女たちの苦しみのもと】
人類の文明は発展してきました。しかし二十一世紀の今も、
世界各地で女たちはさまざまな抑圧に苦しんでいます。
その一つは女性に対する家庭的、社会的、文化的抑圧です。
それには、言葉による抑圧、感情的抑圧、経済的抑圧、肉体的
抑圧、夫による妻への抑圧、政治的抑圧、性的抑圧などがあり
ます。
もう一つは性的侵害です。この問題では男性が加害者、女性が
被害者となります。それは、女性が男性より体力が劣り、幾多
の時代にわたって女性が男性の所有財産とみなされ、女性の
肉体が男性の性的慰みとなり、女性への性的侵害が男性の
権力欲、支配欲を満足させてきたなどといった理由によります。
性的侵害にもさまざまな段階があります。軽度のものとして
セクシャル・ハラスメントが挙げられます。女たちは自宅周辺
で、職場で、バスや列車で、ハラスメントを受けています。
中度のものには、男性が女性を誘惑して関係を持ったあとで、
責任を取らずに遺棄するケースが見られます。重度のものと
してはレイプが挙げられます。レイプにもさまざまあります。
第一は、顔見知りでない者によるレイプです。ここには、国家
や民族間の戦闘後、戦傷側の男性による敗戦側の女性への
レイプも含まれます。監獄では拷問として女性へのレイプが
よく生じます。
第二は、顔見知りによるレイプです。旧知の間柄の男性、近所
の男性、職場の上司・・・・・彼れらは見知らぬ男性より女性
に信頼されていますから、ずっとレイプのチャンスに恵まれて
います。
第三は、恋人によるレイプです。女性がノーというのはイエス
という意味だと曲解して、自分の欲求を通す類の男性が少なく
ありません。
第四は、夫によるレイプです。ビルマ語には性的所有者たる夫
(カーマバインヤウチャー)という語があります。それは、
性的生活において妻が夫に必ず妥協しなければならないという
意味として受け取られています。
【作品の問いかけるもの】
ビルマの女たちは本当に、このようなさまざまな抑圧と侵害に
苦しんでいるのでしょうか。
この短編集は、ビルマ社会において世間が女性というものを
いかにとらえているか明確に提示した、いわば社会規範の陳列
室ともいうべきものです。
ビルマの女たちは自由でしょうか。ビルマの女たちは無能で
しょうか。ビルマの女たちが主として直面する抑圧は何で
しょう。
ビルマの世間は女性をどのようにとらえているのでしょうか。
ビルマの女たちに希望はあるのでしょうか。ビルマの女たち
に勇気はあるのでしょうか。
そのような問いを、それぞれの作品が問いかけてくるでしょう。
そして、その答えもまた作品の中に潜んでいるのです。
短編集の編者で役者のマ・パンケッ(みどり)は、本書を五部
に分けています。読者のみなさんは、娘としてのビルマ女性、
妻としてのビルマ女性、母としてのビルマ女性、女性としての
ビルマ女性の生きざまを、そこに見出されることでしょう。
さらに、彼女たちに直接かかわる男性の実態の一部も、理解
されることでしょう。
【ビルマの女たちは無能か】
ビルマの女たちは自由でしょうか。この問いを発する前に
ビルマの女たちたちは無能かという問いについて、まず検討
しましょう。
ビルマの女たちは無能ではありません。なるほど彼女たちは
貧しいかもしれません。高等教育を受ける機会を逸したかも
しれません。
でも彼女たちは無能ではありません。
例えばニョウニョウティンフラの「鬱積」では、年老いた男が
良かならぬことと知りながらそれを実行に及ぼうとします。
でもお手伝いの娘には、それを良くないことだと認識して撃退
する意気があります。
ビルマの女たちが軟弱だとおっしゃるなら、それもまた、彼女
たちの苦労に耐え忍ぶ精神と自己犠牲精神のなせるわざだと
言わねばなりません。ニョウケッチョーの「荒野の荒れ」の
ように、貧困や病気にあえぐ親の苦境を見かねて、親のため
苦痛に耐える娘を軟弱だときめつけられましょうか。
ビルマの女たちの中には、決定権を持つ地位にある者たちも
います。それは、ミチャンウェーの「麻酔薬」のように事業を
仕切る女たちたちや、キンフニンウーの「つかの間の夢が見た
い」のように高い教育を受けエリート生活を享受する女たち
です。
でも大多数の女たちは、決定権者たる男たちに抗うことができ
ません。性行為に及ぶか否か、その場合コンドームを使用する
か否か、そのような問題の決定権は男性側にのみあります。
その結果女性が妊娠します。男性がその責任を取らない場合、
女性が汚辱にまみれ尊厳を失う事態に直面することになります。
父親のない子を出産するか、あるいは密かに子どもを闇に葬る
か。
ビルマの世間は、夫のいない女性が妊娠すれば、女性側に
非難を集中します。主犯である男性は罪を免れるのが常です。
女性を妊娠させ遺棄した男性でも、その後の結婚の道は女性
よりはるかに開かれています。
彼の体内には、ある女性を性行為によって妊娠させたという罪
の証拠は何も残留しないからです。一方妊娠したまま遺棄され
た女性のほうは、もはや結婚する道が閉ざされたうえ、彼女の
おかげで親や親戚までが世間の非難にさらされます。そんな
時、妊娠した娘たちは、世間に顔向けできない人生よりむしろ
死神への接近を選択するほかありません。密かに中絶します。
闇の堕胎が増加しています。母体の死亡率が増加しています。
マ・チュープィンの「傘係」では、ゴルフ場の中年男性客に
付き添って傘をさしかけ、キャディーがいない時にはゴルフ
バッグも運ぶ娘たちのことが書かれています。ある娘は、
おしゃれをしたりご馳走を一杯食べたい誘惑に打ち勝てず、
下心で接近してきた役人に期待を抱き、彼の欲求に応じて
しまって妊娠します。
役人は所帯持ちで、娘に責任を取りません。ですから娘は中絶
します。ビルマでは中絶は非合法です。ですから普通の診療所
の大半が処置できません。そこで娘は地元の、何も理解もせず
技術にも長じていない人物のもとで中絶します。不潔な器具を
やみくもに生殖器に挿入して掻爬しますと、敗血症に感染しま
す。
血液中に化膿菌が侵入して、最近から分泌する毒素で急性
炎症を起こします。病院に入院しても手遅れです。そうして
娘は死ぬのです。
スエーイエーリンの「海の中の小さな帆船たち」でも同様の
問題が見られます。さらに、夫からの性行為の求めに応じら
れない妻が、夫の恨みを買い殴られる話しも語られます。
彼女は、夫から感染した梅毒による傷の炎症のため夫を拒絶
したのです。
【ビルマの女たちが主として直面する抑圧は何か】
それは家庭内における女性への暴力(ドメスティック・バイ
オレンス)です。
ビルマ人の家庭に関する一般的な調査からは、離婚率が
かなり低いことが判明します。離婚率の低さは家庭が平和で
円満であるからだと考えるむきもあるでしょう。しかし現実は
そうではありません。離婚率の少なさは、次のような理由が見
られます。
ビルマの世間では、出戻り女性(タクラツ)は非常に不名誉で
恥ずべきものだとみなされます。一方、男性離婚者は女性離婚
者よりも、世間に受け入れられ優遇されます。男性離婚者が
再婚する場合は、相手に不自由しません。女性離婚者が再婚
する場合、相手はきわめて限られます。「立派な女性が飾る
花は一輪」というビルマの格言があるのです。
夫と離婚した場合は、妻だけでなく子どもたちまで肩身の
狭い思いをします。妻が離婚を申し出ても、夫のほうは
なかなか離婚を承諾しません。夫が承諾してくれなければ
妻はお手上げです。逆に夫のほうが離婚した場合は、妻が
承諾してくれなくとも問題ありません。
夫が経済的に豊かであり、状況さえ許せば、好きなだけ妻を
娶ることが法律的に許されています。このことでは「立派な
男に女官千人」という格言があります。これは現代にもあて
はまる格言なのです。
ニョウケッチョーの「荒野の流れ」では、独身を騙る男と
結婚させられた、貧困の申し子たる若い妻の状況が芸術的に
描写されます。多数の女の存在を知った時、彼女は親の家に
帰ります。しかし彼女の母親自身が、「女というものは夫を
次々と取り替えちゃいけない。我慢して添い遂げなさい」
とか、「経済援助の大樹の陰を出るとは、親不孝で利己主義
者だ」とか、なだめすかしたりさまざまに説得して、彼女を
夫の元へ送り返すのです。
世間が出戻り(タクラツ)女性を非難し軽蔑するのを目にした
一般の妻たちは、夫と離婚したくてもそれを飲み込んでこらえ
ます。自ら事業を率いている女でさえ、時には夫に殺意を抱く
ことがあっても、離婚することはできません。
ミチャンウェーの「麻酔薬」は、抑制された結婚生活の苦悩に
エビの輸出事業の経験や感慨を混入して描き、技法的にも
優れた小説となっています。
【ビルマの世間は女性をどのようにみなしているか】
ビルマの世間は、女性の価値を処女性や純潔性や貞節を
基準に算定します。その女性の学歴や世間への貢献度を
基準に算定するのではありません。
ビルマの世間はまた、妻の価値を家庭維持能力を基準に
測ります。彼女の結婚相手である夫の経済力や地位を
基に測ります。
ビルマの女たちは人間関係における自分の位置を、自ら
男性の一段下に定め、その位置に甘んじてきました。さら
に一段上がることなど想像だにせず、自分の人生に不満も
持たず、「息子を主人、夫を仏と心得よ」という格言に
従ってきました。
女たちは男性の威徳というものを信じています。自分たち
女は前世の行いの結果である果福(ポン)が男より低いと
信じています。
自分のロンヂーや足など、下半身にかかわるものが、男の
使う物に触れてはいけないと考える女たちは今もいます。
男のロンヂーと女のロンヂーを一つの石鹸で洗ってはいけ
ない、洗濯機で一緒に洗ってはいけない、同じロープに
干してはいけない、同じアイロンでアイロンかけをしては
いけないといったタブーを守っている主婦たちはまだまだ
たくさんいます。
【ビルマの女たちに希望はあるか】
ビルマの女たちは法的公正や自由に希望を託そうとします。
しかし彼女たちは規範を覆すことにはまだ躊躇しています。
ですから当面は、自分たちになりかわって自分たちの感慨
を声として表現してくれる作家芸術家を頼みとします。
彼らを応援します。頭脳明晰な女主人公を尊敬し模倣します。
自分の人生に妥協したい気持ちが生じたような時には、
わが子の人生に希望を託します。
ティンティンターの「マイル標識を立てて」では、一人の
女性が娘に万全の希望を託して、自分の人生に立ち向かう
さまが見られます。自分の血を分けた子が娘である時、
主人公の心の中では、希望がより鮮明となっていきます。
「自分の娘だけは自分の被った苦悩を感じさせてはなら
ない」という誇り高い希望が、より堅固なものとなって
いくのです。
【ビルマの女たちに勇気はあるか】
ビルマの女たちに勇気はたっぷりあります。ただ、これまで
の人生で刷り込まれた「規範への反逆は罪である」という
通念のゆえに、それを打ち破ることの適否を逡巡している
のです。
ビルマの女たちは間違いを間違いと言える勇気があります。
多数が苦い雨水を飲んでいる時に、それを飲むことを拒否
する勇気があります。例えばケッマーの「小説にあらず」
では、精神の強靱な一人の娘と一人の男の興味深い対戦が
語られます。これは読者をとらえて離さない小説の一つです。
本書は、短編の文学性がたっぷり堪能できる単なる短編集に
とどまるものではありません。むしろ、ビルマの世間の中で
女たちが直面し、苦悩する多くの抑圧について著述された
研究調査報告集だというべきかもしれません。
本書を読み終えられた時、ビルマの女たちが真に自由で
あるのだろうかという問いに対する答えを手にされること
でしょう。
--------------------------------------------------
ジューは1958年生まれ。マンダレー医科大学在学中の
1979年から短編小説を書き始め、卒業後医師として
病院勤務。
1987年、発の恋愛長編『思い出に』で医学生の非婚
同居生活を描いて文学界を揺るがす。以後強い自我を持つ
男女を主人公とした恋愛長編多数がベストセラーとなり、
映画化、ビデオ化される。
中流知識人青年層に強く支持され、若手女性作家への
影響も大きい。
1991年より専業作家となり、1993年に出版社も
興し、現在に至るまで長編十一編、短編五十編余、エッセー
多数を執筆。
一九九七~九八年米国留学。『ミャンマー現代短編集1』
に「漂流果実」(一九八三)を収録している。
--------------------------------------------------
--------------------------------------------------
周縁からの発信-あとがきにかえて
【ビルマ女性作家との出会い】
訳者がビルマ文学の研究を始めたのは、激動する社会に
おける知識人の役割への関心からであった。なかでも、
反植民地闘争や抗日闘争、ビルマ式社会主義建設にかか
わった男性作家テインペーミンを、主に研究してきた。
その過程でビルマ女性の政治参加が意外に低調で、女性
政治家も皆無に近かった事実を見出した。しかし一般に、
ビルマ女性は婚姻や財産所有においては、男性と対等の
「恵まれた権利」を持ち、家庭外労働への進出も著しいと
いわれていたので、女性の問題は長らく訳者の関心の外に
あった。
八八年の新たな軍事政権の登場後、ビルマ女性や女性文学
について翻訳や解説を依頼されることが多くなった。女性
作家たちの発信するものを受け止めるにつれ、ビルマ女性
に対する訳者の従来の印象はくつがえされていった。・・
・・・。
個我の存在に苦悩し、自虐的までに自己を追いつめる女性
像の背後に、男性には寛容でありながら、女性には厳格な
ビルマ社会の規範の二重構造がおぼろげに窺えた。
なるほど小説世界は、言語による創出される虚構世界に
すぎない。しかしそれは、社会的、文化的意識を内在させ
つつ現実世界を生きる、一個人としての書き手が構築する
世界でもある。その行間には、調査や統計記録からは窺い
知れない個人の心の営みが溢れている。とりわけ表面と
水面下の落差の著しい言論統制下の社会では、文学が文学
本来の役割を凌駕する使命を帯びざるをえない。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
八三年の国勢調査では、作家・ジャーナリスト・ライター
は男性一四四二名に対して女性二百八十名。・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
このように男性に寛容で、女性に厳格な二重規範の浸透した
社会は、女にとって危険に満ちている。独身女性の価値はその
処女性にあるから、年頃の娘を持つ母は愚母の謗り免れるべく
娘の管理を強化する。「傘係」の母は、・・・。
ビルマの世間は長幼の序を尊び、僧侶、教師、親への絶対
服従を求める。成人しても所帯を持っても、親子関係を重んじる
のが子の努めである。賢明な娘たちは、「麻酔薬」の娘のように
母の有能な片腕として危険な男社会で働き、「荒野の荒れ」の
娘のように母の理不尽な命令に屈して一家を支える。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
ビルマ社会主義時代、権力は仏教徒慣習法の保障する「恵まれ
た女性の権利」の存在を盾に女性対策を特に講じなかった。
一方現政権は、「既得権に甘んじて国家建設から遠のいていた」
女性の動員に積極的である。彼らは、「南伝上座部仏教伝来の
文化的慣習に裏打ちされた愛国精神に満ちた女性」を求め、
彼女たちが家庭生活を向上させ、それを基礎に国家建設に
参加すること期待する。
女性団体が結成され、女性向け機関誌が創刊され、そこに
一部の女性作家も動員されている。
世間から有徳の女性と評価されるべく、ビルマ女性は家庭
維持に邁進し、社会秩序を支えてきた。そして家庭は長期に
わたる二重規範継承の場でもあった。軍事政権はこの家庭を
国家建設の重要な単位と位置づけ、日常的空間に国家的、
政治的意味づけを導入した。
それは日常描写の政治的意味合いが再認識されたことをも
意味するのであろう。権力が家庭という戦略を掲げたことで、
女性をめぐる認識が矛盾の焦点の一つとして表面化し、
女性作品への検閲の網の目がよりきめ細かくなる可能性も
考えられる。つまるところ、このようにして、女性作家の
発信は、文学界の周辺から中心に向かいつつあるのかも
しれない。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
二〇〇一年九月
南田みどり
南田みどり編訳『ミャンマー現代女性短編集』
(財団法人大同生命国際文化基金、2001年)


最近のコメント