日付が変わって、ちょいと電話連絡。
やっぱりな。ちゃんと食べなあきまへんで。
さ、見ましょか。
DVD "the interpreter" をセットする。
ニコール・キッドマンは美人だけど、でもちょっとお近づきに
なりたくない、っていう美人かな(近づけないし)
なかなか出来た映画。もう一つのラストも用意されているし。
Sydney Pollack の解説を見ると、映画の冒頭、画面の
構成など、十分に読者を想定しているのがわかる。
何を、どのように伝えるのか、参考になるなあ。
お腹が空いた。今日こそ久しぶりにシャビー麺を喰らう。
う。胃が重たい。ウンウン言いながら、朝刊に目を通して、
4時過ぎ寝入る。
10時半過ぎ起きる。なかなか重たい寝起き。
でも頑張らねば。ズルズル起きあがる。
シトシトシィトォ~、とした雨降り。憂鬱だなあ。
ファイル整理の続行。ここで中途半端にストップできません。
ビリビリと不必要な書類を破り続ける。
なんか引っ越しの準備をしているような気分になってくるわ。
昼前、雨がやむ。
ビュン、と銀行へ、引き続きスーパーへ。
バナナを買った。フィリピン産かと思ったらコロンビア産だった。
この流通どうなってんだろ。
ニラの値段が一束99円。安い。でも、小ぶり。でも買い。
ずっとファイル整理。
書棚の上はホコリだらけ。なんか年末の大掃除をしている気分。
掃除機をかけながらファイル整理。
大きなゴミ袋がゴミ文書でいっぱいになる。
夕食は、うどんすきなり。白菜をいっぱい入れる。
ハフハフなり。
19時過ぎ、仕事部屋の整理整頓が終わる。
これで本格的にフィルムスキャンに取りかかることができる
態勢になったな。ふぅ~。
P・ジェニングのDVDを見ようとディスクをセットするが
ドライブが読んでくれない。どうして?2枚ともダメ。く~。
(満を持して)『旅芸人の記録』を見始める。
が、モノトーンの出だし。思わずウトウトしてしまう。
おそらく1時間くらい我慢したら面白くなるのだろ。
が、その前にうたた寝してしまった。
この映画を見るのは、気合いの入った時ではないとダメだな。
後日、見直そう、っと。
今日は1日、無口の日でした。
あ~、今日でもう1月も終わり。今年も残り11ヶ月のみ。
深夜風呂に入る。あ~、ゆったり。気持ちいいね。
さ、深夜DVDの時間だ。
トム・クルーズの『宇宙戦争』を見る。内容は、いただけない。
でも、画面展開と映像はなかなか見せるやん。だから見て
しまう。
野菜食はどうもすぐにお腹が空いてしまう。
だから夜食を口にしてしまう。
朝刊を読み、5時過ぎ寝入る。
8時、目覚まし時計が鳴るが、起きられず。
しばらくして、ゴミ収集車の音。
あ~、ゴミ出し出来なかった。根性無し、や。
11時40分、起きる。
どうやら雨模様。
苦いコーヒーを飲みながら仕事を始める。
ファイル整理を続行。こうなりゃ、引っ越しをするつもりで
とことんやろう。不必要な書類をため込みすぎている。
だから捜し物の文書をすぐに見つける事ができないのだ。
ラジオを聴きながら、延々と書類・文書と格闘。
住所ラベルや個人情報の書類はハサミでちょきちょき。
ええ加減指が痛くなる。ほんま、シュレッダーが欲しいよな。
今日の夕食もハクサイ鍋パート2。
昨日のワカメの代わりに卵を落とす。
けっこう精進料理っぽいけどシャビー麺に比べればまだまだ
豪華。
21時過ぎ、今日の作業を終える。
今日は誰とも口をきかなかった。昨日は電話2件のみ。
24時間以上(独り言をのぞいて)、無言の日。
明日は誰かと喋ることできるかな(おいおい、寂しがり屋かよ)
さ、風呂入ろ。
"SUPER SIZE ME"に倣って、ダイエットコーラを飲みながら、
J・チェン主演の "NEW POLICE STORY"(『香港国際警察』)
を見始める。
おお、なかなか面白い。
知らないうちに映画の中に深く入ってしまった。ラストシーンで
思わず落涙しそうになる。なんとまあ、我ながら単純な性格なん
やろか。
そんな風に、簡単に男女が好きになれるのなら苦労は
しないよ。
え?
そんなに簡単なの?(<って誰に言ってんだろ)
ふむむむ。
片腹がすいた。
夜中に、脂身のない赤身のマグロを喰らう。
食べてすぐ寝たら体に悪い。
で、朝刊を読んで・・・おお、おおお、目をパチクリさせて、
4時半過ぎ寝入る。
12時ちょうど、目が覚める。
遮光カーテンの隙間からまぶしい日差しが流れ込む。
この朝陽(昼だよ)を無駄に出来ない。
起きよう。起きよう。
掛け布団、敷き布団を布団す。
冷えたコーヒーとバナナ2本を喰らい、すぐさま仕事態勢。
ラジオでマラソンを聴きながら、キーボードを叩き始める。
改造したばかりのサイト、その掲示板に早速スパムの書き
込みあり。う~ん、早過ぎる。
海外からの書き込みかな?って思ってたけど、どうやら日本
のスパム業者かな?
さっそくアドレスを変更。
窓を開けて、ちょいと冷やっこい(いやさぶすぎる)空気を
入れながら仕事を始める。
くしゅん。
ビルマの四方山話用のイメージを選ぶため、膨大なイメージ
写真を覗いていく。思い出深い写真があるし、思い入れの深い
写真もある。
思わずニヤリとしたり、胸がキュンとなる写真もある。
涙が、ごっくん・・・あかんあかん。
洗濯機を回しながら、ファイル整理にいそしむ。
次の仕事を始める前に、できるだけ整理整頓をしておかねば。
今でさえ、資料探しでパニック気味だからね。
片腹空いて、トマトとチーズのサンドイッチ。
夕食用に白菜鍋を準備する。
白菜、榎茸、遺伝子組み替えなし国産100%大豆豆腐など。
して、メインは、三陸沖海岸で採れた生ワカメ也。
生ワカメは、実は肉より高価なのだ。
久々にヘルシーメニューやな。
今日はいい天気。
晩冬なのに小春日和。
お布団をパンパンと叩いて部屋に取り込む。
ちょっとだけお日様の匂い。クン。
昨日はちょっと傲慢に書きすぎた。反省、反省。
自分だって小粒なのにね。
でもね、頑張っている知り合いの記者の人が多いだけに、
逆に腹が立つんやね。
もう言わま。
部屋の整理、思っていたより進まない。予定していた1割ほど。
それほど整理整頓出来てなかったこと。
ふぅへぇ~。
まあ、あわてても仕方ない。
ゆっくりやるべ。
風呂はいろ。
7時過ぎ目が覚める。なかなか健康的やん。
天気が良いではないか。思わず布団干し、パンパン。
牛乳をがぶ飲みし(本当は身体に悪いそうな)、して、
机の前に座る。
ペチペチペチペチペチ&ペチペチペチペチペチ。
11時過ぎ、歯医者へ。
前歯の欠けたところを修復。
ギリギリギリィ~ン。痛い(>_<)、涙が出たよ。
でも、びっくり、その場で修復できた。
そのテクノロジーのすごさに驚く。
S歯医者さんから写真集写真出版のお祝いを頂く。
いつもいつも、お世話になります。
また、頑張らねば。
ビュン、とコンビニへ。支払いとコピー。
ビュン、と郵便局へ。支払い。
ビュン、と銀行へ。振り込み。
う、う、う。一気になくなった。ま、これは、いわま。
自宅に戻って、アセロラをがぶ飲みし、作業続行。
ひたすらペチペチペチペチペチ&ペチペチペチペチペチ。
やっとこさ形が見えてきた。
100円シューマイで昼食。
結構美味い。
午後から曇り空。
あわてて布団を入れる。
ブロッコリーカレーを作る。
ぐぅえ、食べ過ぎた。胸焼けするやん。
ひたすら作業続行。
本を読みたいのに。
映画を見たいのに。
散歩行きたいのに。
原稿書かなあかんのに。
考えたら頭が痛くなるので、思考停止になろう。
くっ。
おおよく寝た。ちっちゃな目もパチクリとなる。
6時半過ぎから起き出す。
8時前には机の前に座る。
ええ天気や。
暖かい。
カーテンを開けると、きつい日差し。
窓を開けて、空気の入れ換え。
畳の上にゴロン、となる。
ひたすら、たまった連絡業務をこなしていく。
この1週間に出会った、新しい人、
古い人 懐かしい人への
メッセージを書いていく。
請求書を書く。
領収書が見あたらない。棚・押入のファイルをひっくり返す。
やっぱりないわ。トホホ。
支払い予定を計算。
うわうわ、うわぁ。
冷蔵庫空っぽ気味。
キャベツとニンジンと白ごまと麺でお昼。
ラジオを聴きながら、今回のライブドア・堀江氏逮捕のことを
考える。
やっぱり生物学的な人間の身体性に思いを馳せる。
-そやな、肥大した脳細胞の欲望は際限がないのやな。
その分、身体の欲望は、限界がある-食べる、寝る、
性交する。
どれも満足したら、やめるもん。
食べ過ぎ、寝過ぎ、交わりすぎ(?)
いづれもほどほどで満足するわね。
でもお金儲けという前頭葉だけの欲望は飽くことがない。
そういう世界なんやな。
東京の報告会でのこと。
JR中央線に乗っていた時に見た看板-織田服装専門学校。
ODA-織田-を、ODA-Official Development Assisitance.
外務省の政府開発援助と無意識的に結びつけてしまった。
朝、ホテルでテレビを見たときの事-「BSE(牛海綿状脳症)
対策で除去が義務付けられている牛の脊柱(せきちゅう)
(背骨)が米国産牛肉から見つかった問題」のニュースを
やっていた。
脊柱のアップがテレビ画面に映し出されていた。
米農務省の「検査済みシール(?)」がアップになった。
そこには、う、USDA、と。
もちろんこれは、 United States Department of Agriculture
のはず。
でも、この文字を見て真っ先に頭に浮かんだUSDAは、
Union Solidarity and Development Association でした。
あちゃあ。
最近、どうも一つの事だけに没頭しすぎや。
バランス感覚を保つためにも頭の切り替えせなあかん。
ツタヤから新しいカードが届く。
あちゃあ、このデザイン、なんじゃこりゃ。ちょいと
頂けない。
ウエブ用のカレンダーを2種類作る。
あっ、と気づいたらもう日付が変わってた。
やっぱり無いか。
ま、これまでとしよか。で、検索終了。
(で、何調べてたんだろ?)
ラジオを聴いて、落書きの判決へのコメントにちょいと
腹立たし。
反論をおくっちゃろか。
ニコンのフィルムカメラからの撤退。さらに、コニカミノルタの
カメラ事業からの撤退を聞いて、再度フィルムカメラとデジタル
カメラのことを思う。
かつてパースエクスプレスに次のように書いた。
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「『デジカメ』一考」
「 [・・・] 前回、イラクから帰って心から思ったけど、
やっぱり平和というのはいいものです。日本で満開の桜を見て、
それを楽しむ人たちを見るだけで、涙が出そうでした。
ありがたいことだな、と。できれば世界中の誰もがこの幸せを
感じられればと思うのだけど。自分にできることといえば、目
の前で起こっていることをなんとか伝えることと、こうして心
ある人にメール書くことくらいです。」
友人から先日、個人的に録画していたテレビ番組(『フリー映像
ジャーナリストたちの記録』NHK・ETV特集)を借りた。
番組の中で、多くのジャーナリスト達は、現場で取材することの
意義やそれを日本で報告することの大切さを語っていた。私は
その中で特に、2004年にイラクで殺害された、故小川功太郎さん
の残したメモの中身を読み上げる部分がなぜか印象に残った。
番組中のその箇所は、少々大袈裟気味に、桜の花びらが舞う中を
人々が花見をしている様子をソフトフォーカスで表現していた。
視聴者に心情的なイメージを押しつけ過ぎて、ちょっとやり過ぎ
かな、とも思った。
だが、小川さんのメモを読み上げられるにつれ、私自身が過去、
ジャングル戦を続けるゲリラに従軍し、心身共にヘトヘトになっ
て町に降りてきたことを思い起こさせた
やっぱり、その感覚の通りだな。
厳しい取材から戻ってくると、それまで当然だと思っていた日々
の喧噪など一変していた。それこそ新しい世界に登場した人間の
ように、目に入る何もかもが新鮮に映ることがあった。
信号機が青から赤に変わるのに驚いて、じっと見つめたり。車が
エンジン音を立てて走っているだけで歓び。「ああ、人が歩いて
いる(嬉しいなあ)」
心の中で独り言を言っている自分に気付いたり。町の市場の活気
ある状況では、自然と顔がにやけてしまう。本屋に本が並べられ
ていたり(当然のこと)、食堂で人々が食事をしているのを見て、
「ああ、本当に何の心配なく食べている」と唸ったり。
人間が生きている、生活しているんだ-そう感じるだけで、
「命のはかなさを反転させた」人間の尊さを心底感じさせられて
しまった。どうあがいても、人は死ぬのだ。だからこそ、大切な
モノがあるのだ、と。
テレビを見ながら、取り立てて意味もなく、そんなことを考えて
いた。すると、ふと、この数年、頭の中でモヤモヤしていた事柄
がはっきりしてきた。あ、そうかそういうことだったのか、と。
実は、何の脈絡もなかったのだが、突然、(フィルム)カメラと
デジタルカメラ(「デジカメ」)の違いがくっきりしてきたのだ。
それは、「デジカメ」が登場以来、ずっと違和感を持っていたこと
だった。
「デジカメ」が一般化する前、フィルムカメラとデジタルカメラ
はどう違うのですか?そう聞かれることがよくあった。
「『デジカメ』は便宜上、カメラの形をしているだけであって、
あれはカメラではない」と言い続けていた。
つまり、「『デジカメ』は、デジタル式の記録媒体である」と
答えることが多かった。
そう表現しても、それが何を意味するのか、余り深くは突き詰め
ていなかった。つまり、デジタル式の記録媒体とは、どういう
ことかそれほど理解していなかった。
それがこの時、故小川さんの語りから、それが何なのか、突然
思いついたのだ。
これまでのフィルム写真は、フィルムに影を焼き付ける(+化学
薬品)という操作によって、写真を形にしてきた。そこには手で
触ることのできるフィルムという実体があった。
光の反応によって、フィルムに塗られた薬品に変化を与えただけ
である。そこには、自然界の感覚を伴っていたのである。
フィルムカメラは、状態を変化させるという役割を担っていた。
一方、デジタルとは、基本的に<0>と<1>で成り立っている。
でも、この<0>と<1>というのは自然界では存在していないもの。
例えば、リンゴ0個なんてのは、あり得ない。
リンゴ1個、ってのも、人間が便宜的に「1個」って呼んだだけで、
生活上「リンゴがある」ということだけだ。
この数字<1>というのは頭の中だけにある、抽象的な考えである。
「デジカメ」では、<0>や<1>という「無」から、写真イメージ
という「有」を生み出したような錯覚を起こさせる。
それは、これまでの単なる化学変化というのとは意味合いが全く
違う。どういうことかというと、フィルムカメラという物質から
生み出された映像は、時間が経つにつれ、実体が消滅していくと
いう前提がある。いわば、寿命があるのだ。
それに反して、デジタルカメラから生み出された映像は、
寿命がない。
<0>と<1>のコピーをしていく限りは、半永久的に消えることは
ないのだ。
私が思うに、ヒトは、寿命あるモノに対してはかなさを感じたり、
感情移入するものだと思う。
いつかは自分自身も消えてなくなるものだし、あるいは、自分と
いう存在が消え去る前に、自分の身の回りに変化が起こり、
親しい人やいとおしい物体がいつ消失するかも知れない。
だからこそ、それらのモノに愛着を持つものだろう。そこに存在
のはかなさや尊さを感じるのだろう。だからこそ、その消え去る
ものを、はかなさを大切にしたいと思っている。
だが、「デジカメ」は、イメージとして、そのはかなさとは全く
相容れない存在を生み出す。記録媒体が劣化しない限り、半永久
的なコピー的なものを生み出すからだ。
「デジカメ」は、おそらく記録媒体としては、非常に優秀な機器。
だから、私も使っている。命を持たないが命のイメージを撮し込
むことのできるもの。
なにか物足りない、というより、足り過ぎるのである。
そんなことを考えていると、「デジカメ」にもう一つの違った
属性があることに気づいた。
「デジカメ」のもう一つの属性とは、一体何なのか。
その答えを出す前に、私がフィルムカメラを学んだ時のことを
思い出してみたい。
米国の写真学校で真剣に写真を身につけ始めた時、最初は
いわゆる35mmカメラを持たせてもらえなかった。
とりあえず1年の前半は、大型カメラで撮影の基本を学ばされた。
大型カメラというのは、つい10年前くらいまで、結婚式や学校の
学級写真の撮影ではよくお目にかかっていた代物だ。
前後に伸びたカメラ本体に、アコーデオンのような小型の蛇腹が
ついて、シャッターを切る時に黒い布をかぶる、なかなか手の
込んだ扱いにくいカメラである。
15年ほど前、その大型カメラと三脚を持って、米国東部の
ボストンの町をよくぶらついた。どこで、何を撮影するか。
それを決めるのが第一歩だった。
撮影被写体が決まれば、三脚を組み立てる。その次に、三脚の
上にカメラを組み立てる。露出を露出計で測り、黒幕を被って
ピントを合わせ、シャッターにつながったリリース(細長い
ワイヤー)ケーブルを押して、でようやくシャッターを切ること
ができた。
一枚の写真を写すのに、結構な手間と時間がかかる。
それゆえ、シャッターを切る前から、どうしてその場でその瞬間
にシャッターを切るのか、意識的にならざるを得ないのだ。
毎日、その繰り返しをすることによって、自分の身体に、
構図と光の間合いを測ることを覚えさせていった。
大袈裟かも知れないが、身の回りや風景への見方が変わった。
歩道に立つ電柱や広告、家の並び方や人の動き、ひとつ一つに
対して過剰な注意を払うようになった。
信号待ちをする人の手の位置。駐車中の車の並び方。建物の
窓ガラスに反射する夕陽の影の濃さ。
最初は、シャッタースピードや露出の技術的な失敗の繰り返し
が続く。やがて、自分では結構いいと思った構図が、写真が
いざ出来上がってみると、全然面白くない構図だったりする。
シルエット気味に撮ったイメージが露出不足で真っ黒になったり
した。自分のイメージ作りの失敗が続いた。
フィルムカメラ時代は、失敗から何かを学ぶということができた。
だが、「デジカメ」にはそれはできないのではないだろう。
・・・だが、果たして、そんなに簡単に言ってしまえば身も蓋も
ないのではないか。ここまで書きかけて、そういう展開も何か
おかしい、ということに気づき始めた。
そうか。 フィルムカメラ時代の撮影や記録の意味合い基準で
「デジカメ」時代のそれを判断すること自体がおかしいのかも
知れない。
フィルムカメラと「デジカメ」という比較がおかしいのだ。
そんなことより、ある一つの時代の中の現象をどう判断するか。
その判断基準をどう設定したらよいのか。それはその時代のだけ
でしか規定できないのではないか-「デジカメ」が出現すること
によってそのことを考えさせられた、ということなのだ。
その大型カメラには、シートフィルムを1枚ずつ装填し、
撮影する。
フィルムシート1枚は、5インチ×4インチ(12.5cm×10cm)と
いう大きさだ。扱いにくい。現像方法は、自分の手を薬品の
入ったトレイにつけて、フィルムを一枚ずつ現像する。
撮影も手間だが、現像も手間である。
そんな風に仕上げたフィルムから、全然期待できないイメージを
印画紙に焼き付ける作業ほどむなしいことはない。なんで、
こんな写真しか撮れないのか。
自分が頭の中でイメージした像と出来上がりはなぜこうも違う
のか。どうして自分の思い描いた写真が仕上がらないか、次第に
考えるようになった。
そうやって、数え切れないほどの失敗を繰り返した。
ゆっくりと、時間をかけて、失敗から学ぶことを身につけた。
それから約13年後、「デジカメ」が一般的になってきた。
「デジカメ」は、撮影時の失敗を許してくれる。その場で、
簡単に撮り直しが可能なのである。
あまりにも安易な表現かも知れないが、「デジカメ」は失敗から
学ぶ、ということを奪い去ってしまったのではないか、と。
それは、そのことが良い悪いということではない。
フィルムカメラは良かった、昔は良かった、という価値判断から
言っているのではない。「デジカメ」とは、そういうモノであり、
そういう時代の要請から作り出されたものであるであろう、
ということが言いたいのだ。
写真撮影がうまくなるコツは、私のように生まれもって才能の
ない者は、できるだけ枚数を多く撮ることでしか上達できない。
それ故、時間もコストも大幅に軽減させてくれる「デジカメ」
の登場は本来、喜ぶべきなのであろう。
だが、何か釈然としないのである。
失敗することを怖れることなく、枚数を撮ることのできる
「デジカメ」は、失敗からのストレスを解放させてくれた。
だが、何か、引っかかる
フィルムカメラの時代(時代とは、ちょっと大袈裟だが)には、
写真が出来上がってくるまでに、ドキドキ感や期待感があった。
だが、今は即、その場でイメージの出来上がりが分かる。
ドンドン撮影し、ドンドンプリントする。なにか撮影も消費と
いう行為の一部になってしまったようだ。
これもまた、それが悪い、と言っているのではない。
そういうものだ、と言いたいのだ。
何やら堂々巡りのツボにはまりこんでしまいそうだ。
それでは、「デジカメ」時代の撮影や記録は、現代社会の中で
どういう意味合いを持っているのか---今度はその答えが
出ないことに気づいてしまう。
またまたやっかいな宿題を抱え込んでしまったような気がする。
そうやって今、夜明け前の5時過ぎ、タイ北部チェンマイの
ホテルで、「デジカメ」のバッテリーを充電しながらひたすら
考えを巡らせるのである。
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このことについてはまだまだ言いたりないこと、感じ足りない
ことがあるようだ。ま、そのうち思いついたときにメモをして
いこう。
OKY氏はまだ仕事中のようだ。
日付が変わる前に寝ることにしよう。