しばらく新聞を止めていた。
活字中毒の自分としては、それほどの違和感がないのにちょいと
びっくり。
ある意味、このまま行くのかな。
と、『毎日新聞』、『朝日新聞』を手に取ってみた。
おお、偶然、オピニオンのページに『国家の品格』の藤原正彦氏
と『ため倫』の内田樹氏の談話が載っていた。
ちょうど内田さんの『知に働けば蔵が建つ』を読んでいたので、
ちょいと驚き。
最近、内田さん、乗ってるね。
私も集中的に読んでいる。
加藤典洋さんは「内田は、現在五十代半ばだが、ほんの四年前
まではフランス現代哲学の担い手の一人であるエマニュエル・
レヴィナスの翻訳によって関心のある人々に、僅かに知られる
─・・・・・。」「なぜ突然こうした書き手が現れたのか、
・・・・・」
たしか高橋源一郎氏(村上春樹氏だったかな?)もどこかで、
同じようなこと、-もっと早く内田さんを読んでたら、自分の
行動も変わっていた(2度も離婚、云々)-と書いてた。
ま、これも時代が生み出した人なんだろう。
確かに内田氏の発想は面白いし、というか、なんでそんな風に
考えるの?ってその考えの内容よりも、その裏を想像するのが
楽しい。
もっと面白いことに、内田氏のブログを通じて、オダジマンこと
小田嶋隆氏のコトを知ったことだ。
というより、オダジマンを再発見したことだ。
内田氏のブログや著作に出会うずっと前から、実はオダジマンの
存在を知っていたのに、書いたモノを読んでいたのに、そのことに
気づかなかった。
数年前まで『噂の眞相』という、過激(?)な月刊誌があった。
現在メディアに登場している「うるさ方」が書いていた雑誌である。
確かオダジマンもそこに、毎月コラムを書いていた。
誌面のレイアウトの関係か、あまりじっくりと読んだことは
なかった。時にじっくり読んでみると、確かに面白かった、
という記憶はある。
数年間、オダジマンの書いたものとつきあっていたのに、当時は
今ほど彼れの書いたモノをスゴい、と思わなかった。
ある意味、天才はなかなか理解されないものだ。
そう、何が言いたいかというと、個人的に思うに、オダジマンは
天才型。内田氏は秀才型、という風に感じることだ。
両氏の書いたモノは、面白いし、ためになる。あんな風に書けたら
なあ、とも思う。
才能があり努力する人は、内田氏になれる、と思う。だが、決して
オダジマンにはなることはできないだろう。
誤解しないでほしい。
内田氏よりもオダジマンが偉い、すごい、というのではない。
ただ、単に違うのである(その違いが説明できない)
オダジマンの場合は、発想の面白さではない。すごさである。
ある意味狂気(いやいや社会的に存在しているから、プチ狂気
かな)を感じさせる。世捨て人の切なさを感じる。
社会的な影響力や存在としては内田氏のあり方がまっとうだと
思う。
報道やドキュメンタリー写真でいえば、J・ナクトウェイ氏と
S・サルガドかな。
被写体への接近、写真の撮り方、作品発表の仕方からすると、
サルガド氏は秀才型、ナクトウェイ氏は天才型かな。
畏れ多いことを言えば、誰もが頑張ればサルガドにはなれる。
が、ナクトウェイには決してなれない。
内田氏やサルガドを目標とすることはできるが(そうすること
自体ちょいとばかげているが、人はついついそうしてしまう)、
決してオダジマンやナクトウェイ氏を目標とすることはできない。
後者の2人は、違う世界に住んでいるのだから。
だからかもしれない。内田氏の書いているものが理解できない
場合は、判ろうとして何度も読んでしまう(だから集中的に本を
買ってしまった)
それに内田氏は、幅が広いので(たぶんその幅を無意識的に意識
しているはず)、彼の繋がりから自分もそれにつられて、ちょっとは
広がることのできる可能性を見いだせる。
たとえば『東京ファイティングキッズ』の平川克美を知ったことは
そのいい例であろう。
だが、オダジマンの書いたモノが理解できないときには、端から
あきらめてしまう。理解できるモノしか楽しめない。
だから人に、内田氏を薦めても、けっしてオダジマンを薦めることは
あまりない、と思う。
オダジマンはメジャーになって欲しくない(ある意味、なってるけど)
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