魂を売るか・・・ある財団に応募しようとおもったが、その財団の設立に
を考えると、やめだ。
『反戦略的ビジネスのすすめ』、『論力の時代』読了。
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人間がビジネスをするのではなく、ビジネスする動物が人間
なのだ。
(P.003)
ビジネスとは損得勘定でものごとを考えることであり、正義や
倫理、道徳を指標とするわけではないということに全面に同意
を与えたいと思っております。・・・・・。
・・・「グローバリズム的な思考」「戦略思考」といったもの
が、ビジネスの面白さやエートスといったものを根こそぎになぎ
倒している光景に対して、そうではないやり方、・・・・・。
(P.004)
「面白さ」のよってくることは、人それぞれにことなっている
でしょう。・・・・・。
それはひとつの結果であって、事後的に成功であったとか失敗
であったと判断して・・・。
人は儲からない仕事にも情熱を注ぐことができるし、地位に恋々
としなくとも達成感を得ることが可能・・・。
(P.016)
わたしがいいたいことは、実は「ビジネスはお金のためだけじゃ
ないよ。もっとも崇高な目的があるはすだよ」ということでは
ありません。ビジネスを「お金」であれ、「達成感」であれ、
あるいは経営者の自己実現であり、明確な目的が事前にあるもの
だとする考え方そのものが、ビジネスをつまらなくさせている
原因のひとつであるということなのです。
将来に目的というものを設定することによって、ビジネスの
「現在」は将来に奉仕するための手段になります。この現在の
絶えざる手段化こそ、ビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因である
と思っている・・・。
(P.017)
ビジネス書を読む読者が見落としているのは、ルールブックを
いくら読んでもゲームを楽しんだことにはならないという単純
な事実です。
(P.018)
逆説的な言い方になりますが、すべてがうまくいくゲームは
まったく面白さというものを運んでこないばかりか、ゲームと
して成立しません。なかなかうまくいかないこと、膨大な失敗
の山を築くこと、こういった試行錯誤こそゲームの面白さを保証
し、担保しているということだろう・・・。
(P.019)
ビジネスはモノを媒介とする平和的なコミュニケーションであり、
(P.020)
高度経済成長を続けている間に、ビジネスが社会の限られた
リソースの奪い合いとして認識され、会社をその収益獲得機関
として考えるようなビジネス観が支配的になってきました。
奪い合いであれば、その最終形態は戦争です。
(P.021)
ビジネスにおいては長い間、攻撃は最大の防御であり、競争
相手をその「最低の鞍部」越えるという80年代のポレミック
な考え方・・・。
戦略本が読者の心の深いところに響かせているのは「恐怖」
です。敵よりも早く「戦略」を手にしないと大変なことになる
よというわけです。つまり、人は戦略本を買うのではなく、
自らの恐怖心に買わされているのです。
ビジネスプランというものがあります。マイクロソフトの
プレゼンテーションソフトである「パワーポイント」には、
ビジネスプランのテンプレート(雛形)が組み込まれています。
・・・・・。
もし、起業家というものを定義しようとするなら、テンプレート
にしたがって自らのビジネスを組み立てるマインドの持ち主で
あるはずはなく、テンプレートそのものを書き換えるような人間
であるはずです。
(PP..029-030)
IT は情報技術と翻訳されます。でも、正確にいうなら情報交換
技術というべきでしょう。というのは、情報というものは退蔵
されたままでは何の価値ももたないただのゼロと1の数字の羅列
にすぎないからです。
(P.037)
その意味では、情報はお金と似ています。お金もそれ自体は
ただの紙切れですが、それが何とでも交換できる「万能の性格」
を持ったときに、そして持てる者と持たざる者の巨大な落差が
形成されるときに比類のない「価値」となったわけです。
(P.038)
起業家が描くビジネスプランも投資サイドが考えているような
評価ポイントを軸に画一的に構成されているものがほとんどなの
です。
なぜなのでしょうか。
答えは簡単です。それは、企業の目的が最終的には「お金」に
設定されていることから招来するということです。
(P.043)
わたしは、ビジネスをモノやサービスといった商品を媒介とした
人間と人間のコミュニケーションであると考えています。
(P.048)
わたしは、自らの欲望の充足のために会社を興したわけではない
ので、・・・。
(P.049)
かつての会社設立にはひとつの物語がありました。
「物語」とはそれ自体自己完結しているひとつの世界です。
そして「物語」が「物語」であるのは、そのなかに現実とは
異なった物語固有の時間が流れているということに尽きるの
です。
たとえば企業活動というものが「利潤」を生み出す活動であり、
・・・・・。なぜならここでは、重要なのは結果であって、
プロセスというものはできる限り簡素で、単純で、交換可能な
ものであることが要請されるからです。
しかし、固有の時間というものはプロセスのなかにしか存在して
いません。
私たちが会社というものを作って、・・・、そこにわたしたちの
固有の時間(自分たちの仮構)というものを生成するミッション
があったからだと、わたしは考えています。
・・・・・。
会社の機能面の対極にあるこの幻想共同体の生成という側面は、
(PP.057-059)
カテゴライズは、いつもその人間の性格や行動を類型として理解
するために単純化された過去のデータにしかすぎません。それは、
人間というものを拘禁したり、解釈したり、審判したりする場合
に使用する物差しとしては何らかの意味を持っているのでしょう
が、そういった類型化という目的を離れたところでは何の意味も
持たないということは、・・・。
同時に、他人の人生から何かを学ぼうという人にとっても、この
カテゴライズは何の意味もない事後的な文字列にすぎません。
それなのに、会社を作っていこう、会社について考えてゆこう、
会社の価値について何ごとかを学ぼうといった人たちが、なぜ、
事後的に記された会社のデータや業績や事例といったものから
何かを学ぼうとするのか、不思議なことと言わねばなりません。
繰り返しになりますが、これらのものは事後的、便宜的に類型化
されたにすぎないのです。
・・・・・。
これらはすべて過去の事象であり、事後的に記述された結果に
すぎないということでしょう。
・・・・・。
では、人が他者の人生から何かを学びたいと思うとき、彼は他者
のどのようなふるまいに期待したらよいのしょうか。あるいは、
人が自分の人生を他者に伝えたいと思うとき、人はどのようにして
自分を説明しようとするでしょうか。
おそらくは、その人間がひとつの行為をどのような理由によって
選択し(あるいはその選択によって何を断念し)、そのときに
どのような意図、決意、逡巡があり、その行為がそのような
プロセスを経てひとつの結果になったのか、とうところまでの
時間のなかでの出来事に行き着くほかはないはずです。
これが、「物語」という形式を人に選ばせる理由です。別の言い方
をすれば、人には「物語」という形でしか伝えられないものがある
のだということです。
(PP..060-061)
創業者にとって会社を作ることは、個人的な欲望やアイデア、
技術といったものを社会化させてゆくための装置の作りであって、
会社そのものが目的ではありません。
(P.075)
企業のプレゼンスとは、誰もがそこで働いてみたいと思わせる
ような、企業理念、意志決定プロセス、影響力、製品やサービスの
独自性、そしてそれらを生み出す経営方法といったものが作り出す
オーラであり、個性というべきものにほかならないのです。
(P.077)
シリコンバレーに代表される、スピード経営、戦略経営、直接金融、
株主中心の会社経営、労働資本の流動化、企業競争のゼロサム
ゲーム化といったものが日本の経営土壌に一気に流入してきた
のは、それが勝者の戦略として機能していたからです。
このことは、米国型の戦略的な経営が米国経済を勝利に導いた
ことを必ずしも意味しません。話しは逆です。経済的勝者が繁栄
を永続化、固定化するために現在の戦略を構築したのです。
(P.079)
人間はいつもプロセスのなかに存在しています。
(P.085)
戦略家は、結局自分の戦略が当てはまる現実しか見ないものである
ということでしょう。戦略が当てはまるのは、相手もまた同じ思考
のパラダイムで働いているときだけなのです。なぜなら、形式や
分析とは無縁のベトナムのゲリラの行動は、自分がよく知っている
思考パラダイムから離れて、自分が知らない思考のなかへの命懸け
の跳躍をしなければ読むことができないからです。
(P.086)
ひとつの方法論の選択は同時にほかのありうる可能性の排除で
あることを意味しています。
(P.089)
未知という意味は、たんに将来のことはよくわからないという
意味ではありません。むしろ、将来を知るためにはわたしたち
が過去を取り扱う手つきには、私たちには自覚することのでき
ない重大な落とし穴があるということを申し上げたいのです。
(P.092)
フィジカルな欲望は、いわば人間一個の身体内部での出来事
です。身体性というものが、欲望の培地であり同時に欲望を
囲い込む垣根であるわけです。対するに、観念の領域は無際限
であり、ここに生起する欲望は身体の内部から這いだして、観念
のなかで自己運動を始めます。ここに欲望は制動機を失い、欲望
が欲望を再生産しながら拡大してゆきます。
(P.104)
社会のなかに位置づけられるとは、社会のなかで他者と自分との
間にある差異が意識されることでもあるでしょう。人間は自分を
確認するために他者を必要とするわけです。この場合他者は自分
と同じでなければならず、同時に自分は他者と異なっていなけれ
ばならないという奇妙な2重性が現れます。
(P.106)
働くモチベーションを突き詰めていくと、必ずコミュニケーション
の問題に行き着きます。それは、人間の欲望といったものの最終
形態が他者を必ず必要とするからです。
・・・・・。
まず先に交換があって、はじめて人は他者との差異のなかに自分
を発見するわけである。そして事後的にその差異が愛情とか尊敬
といった形で分節されることになります。
(P.107)
自己実現とは将来実現する能力や可能性なのではなく、ただ現在
の欠落感としてしか実感できないものであるといえるのではない
でしょうか。・・・・・。
欠損的、欠性的にしか存在しえないような欲望を、わたしたちは
自己実現の欲求と名づけたわけです。
(P.118)
「ビジネスとは何か?」「人はなぜ働くのか?」・・・。
したがって、私の論考はこの「なぜ働くのか?」という問いに
回答を用意するためのものではありません。私の興味は、人は
なぜこのような問いをやめられないのかということの考察にこそ
向けられています。
(P.126)
人間がビジネスをするのではなく、ビジネスする動物が人間で
あるということです。言葉を持つ、火を使う、墓を持つということ
と同様に、人間をほかの動物と隔てる条件の一つが交換するという
ことであり、それこそがビジネスの期限的な場所であるということ
です。
(P.136)
客観的な評価とはある枠組みのなかでの評価にすぎないと
いえます。社員を数値で評価してゆくのは、あくまでも数値で
評価できるものを評価するという枠組みを設定しているからこそ
できるわけですが、評価される側も評価する側もしばしばこの
枠組みを忘れるものです。
(P.146)
しかし日本型システムが崩壊したのは、まさにこの責任を取る
というシステム成立上の基盤そのものが崩れてしまったという
ことになるでしょう。
(P.156)
わたしはコミュニケーションが発生する最初の条件は「最初の
贈与」であると考えています。・・・・・。コミュニケーション
においては与えたものしか受け取れないということになります。
(P.158)
・・・リアル・ポリティクスの世界だけではなくて、経済、教育、
社会のどの分野でもいまや戦略的な思考は当然の理であり、戦略
なき態度は間抜けな証左であるかのごとく取り扱われているの
です。
・・・・・。
言葉というものはおそろしいもので、頻繁にしようされている
うちに、それがひとつの思考パターンになり、行動までを規定
してゆくという呪術的な力を持っています。
(P.162)
戦略的な思考にとらわれる理由はふたつしかありません。その
ひとつは、少しでも自分に優位に事を進めるために、スタート
地点における有利なポジションの獲得、競争相手の弱みに関する
情報の入手、・・・、いわば一種のずる賢さの肯定です。そして
もうひとつは、自分の相手は必ずこのずる賢さで自分に対応して
くるという疑心であり恐怖心です。
(PP..164-165)
結論からいえば、それは都市化と市場原理主義の横行にその因子
があるということなのでうが、これを証明するためには少し厳密
な議論が必要です。
たしかに、いきすぎた市場主義というものが、いわば結果よけれ
ばすべてよしといった倫理観の土壌をつくり、それが競争をより
加速させ、競争に勝つための戦術を先鋭化させ、さらにはあらか
じめ競争優位なポジションを得るために頭脳を使うということが、
人と人との関係を変質させてきた、・・・。
(P.165)
わたしは、この「当たり前」の事実、つまりビジネスにおいて
交換されるのはモノやサービスとお金であると同時に、技術や
誠意といったものが満足や信用といったものと交換されている
という二重の交換こそが、あらゆるビジネスの課題の中心であり、
そこからビジネスの過酷さも面白さも派生してくることを申し
上げたいのです。モノやサービスやお金といったものばかりを
見ていると、その背後にある、非言語的なコミュニケーション
というものは見えなくなります。
(P.168)
・・・、報われない努力というものには意味があるということ、
ビジネスは果実を得るまでに多くの時間を要すること、たとえ
華々しい結果を現在得ることができていなくとも、継続のなかに
「見えない資産」が蓄積されていることなどを理解できれば、
自らの立ち位置に新たな価値観を見いだすことも可能である。
(P.171)
この半世紀という長いスパンで見たときにいえることがひとつ
あるとすれば、生活レベルで今日より明日はよくなるだろうと
いう進歩の幅というものが確実に小さくなり、もはや糊代が
ほとんどなくなるほどに成長を遂げてしまったということです。
・・・・・。生産の拡大と消費の拡大がバランスしていた、
あるいはバランスさせてゆくことが経済発展の最大の課題だった
時代が終わりつつあるということです。
(P.176)
経済のグローバル化とは、国民経済の枠組みのなかでは残り
少なくなってしまった発展の糊代を開発途上国と先進工業国と
の間の経済格差のなかに見出してゆくことにほかなりません。
この経済グローバルはこれから先、未開拓市場への先進工業国
大企業の進出競争、埋蔵資源への利権獲得競争という形でポリ
ティカルな様相を必然化させながらも熾烈なものになっていく
・・・。
実際のところ、グローバリズムといったイデオロギーの下で、
地球レベルでの地域間の差異こそが富の収奪の源泉となるほか
はないといった様相を呈しています。
(P.177)
誤解を恐れずにいうならば、政治的な課題や倫理的な課題を
損得勘定のなかで考えるというがビジネスの思考なのですが、
ビジネスの課題を政治や宗教の語法で語っているのが昨今の
現象であるといえると思います。
(P.180)
地球の救済とか社会正義の実現というような問題は、倫理感や
正義感だけではなくて、ソロバンが合う合わないといった世俗
の言葉でも語れないといけない。ソロバン勘定ってのは則を越
えずということと同じで・・・。
「現場で検算されない理屈はいくら正しくても使いものになら
ない」ということですよね。
(P.183)
「現場」というのは、たしかに「ここ」なんだけれど、「ここ」
にいるだけではその全容が見えない。でも、「全容が見えない」
ということは「ここ」にいないとわからない。・・・・・。
見えない部分に支えられて見える部分が浮力を得ているという
ことを表象したけれど、・・・。
(P.185)
「現場」というのは、確かに「ここ」なんだけれど、「ここ」が
「現場」であるためには、「それが見えるためには、それを見え
るものにした無数の条件といったものを無意識的のうちに排除し
ていることをわたしたちは忘れている」ということを思い出さな
いといけない。
(P.186)
現場っていうのは、まさに身体がそこで生きている場所なわけ
ですね。
どんなに整序された理論で説得されても、なんかどうも居心地が
悪いっていうことありますよね。頭ではああなるほど、と思って
も身体が納得していない。こういった場合、ぼくはやはり、身体
から響いてくる声に耳を傾けるべきだと思います。
・・・・・。
経済や経営、或いは政治まで含めてもいいですけれど、これらを
説明する理論なんて、それこそ時代が変われば容易に変わってし
まう・・・、身体のほうは何万年も変化しないわけですからね。
(P.188)
沈黙交易のダイナミズムは、モノをやり取りする人々の間に
「共通の度量衡がない」という・・・。
だから、おそらくは「交易相手に、もう一度出会わなければ
ならない」とぼくたちに思わせる心理的圧力の高いものほど、
「経済的価値」が高いとされるのです。
(PP..193-194)
よくわからないものを手にしたとき、人はその価値を計量しよう
がないので、もう一度会うという仕方で理解を経験に変換しよう
とするわけですね。
(PP..193-194)
「戦略」という好戦的なタームであり、数ある思考のフレーム
ワークのオプションのひとつにすぎない思考方法にとらわれて
しまうような精神の状態こそが問題であるということなのです。
・・・・・。
本来自由な考想に委ねられるべき状況を限定的な文脈のなかで
しか考えることができなくなるということもあるのです。
(P.209)
しかし、戦略的な思考を採用することで無意識のうちに排除して
しまった別の思考のフレームワークというものがあったのでは
ないかと想像することは、意味ある重要な態度ではないかと思う
わけです。
(P.210)
(マラソンの)野口選手が勝利したことによって、この(25キロ
付近の早過ぎると思われる)スパートが「戦略」のひとつであった
と事後的に確認されたのだ、と。
野口選手が勝利した原因は、おそらく数え切れないくらいたくさん
あったはずです。・・・・・。
それでも人はひとつの結果に対してひとつの原因を求めたがる
ものです。そこで人々が注目したのが、25キロ付近のスパート
という「戦略」だったということにすぎません。考えてみれば、
この「戦略」自体を可能にしたのもまた練習の蓄積や関係者の
支え、シューズやコンディションであったわけです。
問題なのは、「戦略」をクローズアップするということはその他
の無数にあった条件を隠蔽してしまうkということなのです。
(P.217)
もし成功から学べるとすれば、それは結果からではなく、選手の
構え、トレーニングに足しする日常的な対し方といったところに
降りてゆくほかはないということなのです。それは、優れて想像力
の問題であるといってもいいだろうと思います。
(P.218)
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この本の書き抜きをしながら、朱線を引いた部分の前後を改めて
読み返すと、どうも前に進まない。今までの作業的な書き抜き作業
と違う。どうも時間がかかる。
何度も何度も、分からない部分を読み返してしまう。
どうも、自分自身とは違う思考のフレームをしているのを感じて
しまうからである。
なぜか?
どうして、そんな風に?
そう感じる度に、思考が中断されてしまう。
なんで、そんな風に?
それは、この人自身がビジネスという現場で経験したことを自分の
言葉で語ろうとしているからであろう。
なぜ、そんなにこの人の考え方にこだわるのか。
よく分からないけど、自分の考え方に波風を立てる。
それはこういうことであろう。
その昔、23歳前後の頃だろうか。
私自身どう生きるか、ということで悩んでいたときに千葉敦子氏の
著作のなかで出会った生き方、その後、自分自身の生き方と重なる
方法- goal-oriented -ゴール・オリティッドという人生の処方
箋を揺り動かしているからであろう。
ゴールを設定して、それに誠実に向き合い、エネルギーを注いでいく
という生き方こそがより崇高だと思っていたが、そうではないらしい。
う~ん。
理念的にはそうは思いつつ、実生活ではどう具体化するのか。
社会に対して、どんな形のコミュニケーション方法を提供するのか。
写真という情報を、どう商品化、作品化して、どの様に交換する
のか。さらに作品そのものではなく、コミュニケーションの手段を、
自分でどのくらい自由な形でコントロールできるのか。それが、
今後の課題であろう。
『貧困なる精神 Z集』をツン読する。
『ウェブ進化論』を(いつものように「あとがき」から)読み始める。
おお!、これはすごい本だ(新書の割には文字が小さくて読み
づらいけど)
これを読めば、フリーメールの gmail を使おうと思わなくなる
だろう。タダほど高いモノはないからね。あな恐ろしや。
6時過ぎ、おお、もうこんな時間か。
寝よう。
10時過ぎ起きる。
おお、今日も天気だ。布団干し。
さ、取りかかろうか。
マニュアル本を片手に、サンプルの修正し、オリジナルデザインの
構成に取りかかる。これってセンスがモノをいうから難しい。
14時過ぎ、出動。銀行へ。
100ドル札2枚の両替のため。
10分もかからないと思ったが、甘かった。
窓口で待たされる。他の窓口は開いているが、そちらは利用できない、
そうだ。
完全に銀行側の論理。客側にサービスを提供しようとする考え方
ではない。
やっと番がきた。
それからまた大変。2枚のうちの1枚が「要チェック番号」に該当するそうだ。
それからまた書類を書かされる。
次に、受け取りのための書類。
そのたびに、窓口係は席を立って、あちこち歩き回る。
たった2枚の両替になんとまあ不必要と思える手続き。
18分経過し、もういい。
受け取りは送って。そういい残し、その場を立ち去る。
200ドルの両替になんでそんなに時間をかけるのか。
ああ。日本のバンクよ。
15時過ぎ、駅前で記者Kさんと待ち合わせ。
駅前の喫茶店に入り、まずはご挨拶。
共通の知人ばっかりですね。
で、ビルマのことメディアのことぐっちゃら。
17時過ぎ、散会。ごっTZあんでした。
Dエにて買い物。TSUTAYAに寄る。
『ミンボーの女』『お葬式』『うなぎ』""CASTING DIRECTOR"を
借りる。
ウエブのニュースを見ていたら、「不起立に『煮えくり返る』
君が代斉唱で戸田市教育長」というのが流れていた。
こういう伊藤良一教育長のような人が教育行政のトップに立つ市は
ホント不幸だな。自分の思想や感情だけで動いているし。
「規律を乱す」から、という発想はまさに、管理する側の発想だな。
怖い。この人自身、「自分の正しさ」を疑っていないのだな。
『ミンボーの女』を見ながら・・あ、これ前見たことあるわ。
これって、結構古い映画やな。
『お葬式』を見る。
これも、観客に阿たような展開。それをあえて2重に意識させて
いるとしたらたいしたものだ。
引き続いて『うなぎ』を見始める。
あ、日付が変わる。