【女たちの苦しみのもと】
人類の文明は発展してきました。しかし二十一世紀の今も、
世界各地で女たちはさまざまな抑圧に苦しんでいます。
その一つは女性に対する家庭的、社会的、文化的抑圧です。
それには、言葉による抑圧、感情的抑圧、経済的抑圧、肉体
的抑圧、夫による妻への抑圧、政治的抑圧、性的抑圧などが
あります。
もう一つは性的侵害です。この問題では男性が加害者、
女性が被害者となります。それは、女性が男性より体力が
劣り、幾多の時代にわたって女性が男性の所有財産とみな
され、女性の肉体が男性の性的慰みとなり、女性への性的
侵害が男性の権力欲、支配欲を満足させてきたなどといった
理由によります。
性的侵害にもさまざまな段階があります。軽度のものとして
セクシャル・ハラスメントが挙げられます。女たちは自宅
周辺で、職場で、バスや列車で、ハラスメントを受けています。
中度のものには、男性が女性を誘惑して関係を持ったあとで、
責任を取らずに遺棄するケースが見られます。重度のもの
としてはレイプが挙げられます。レイプにもさまざまあります。
第一は、顔見知りでない者によるレイプです。ここには、
国家や民族間の戦闘後、戦傷側の男性による敗戦側の女性
へのレイプも含まれます。監獄では拷問として女性へのレイプ
がよく生じます。
第二は、顔見知りによるレイプです。旧知の間柄の男性、
近所の男性、職場の上司・・・・・彼れらは見知らぬ男性より
女性に信頼されていますから、ずっとレイプのチャンスに
恵まれています。
第三は、恋人によるレイプです。女性がノーというのは
イエスという意味だと曲解して、自分の欲求を通す類の
男性が少なくありません。
第四は、夫によるレイプです。ビルマ語には性的所有者
たる夫(カーマバインヤウチャー)という語があります。
それは、性的生活において妻が夫に必ず妥協しなければ
ならないという意味として受け取られています。
【作品の問いかけるもの】
ビルマの女たちは本当に、このようなさまざまな抑圧と
侵害に苦しんでいるのでしょうか。
この短編集は、ビルマ社会において世間が女性というものを
いかにとらえているか明確に提示した、いわば社会規範の
陳列室ともいうべきものです。
ビルマの女たちは自由でしょうか。ビルマの女たちは無能
でしょうか。
ビルマの女たちが主として直面する抑圧は何でしょう。
ビルマの世間は女性をどのようにとらえているのでしょうか。
ビルマの女たちに希望はあるのでしょうか。
ビルマの女たちに勇気はあるのでしょうか。
そのような問いを、それぞれの作品が問いかけてくるでしょう。
そして、その答えもまた作品の中に潜んでいるのです。
短編集の編者で役者のマ・パンケッ(みどり)は、本書を
五部に分けています。読者のみなさんは、娘としてのビルマ
女性、妻としてのビルマ女性、母としてのビルマ女性、女性
としてのビルマ女性の生きざまを、そこに見出されることで
しょう。
さらに、彼女たちに直接かかわる男性の実態の一部も、理解
されることでしょう。
【ビルマの女たちは無能か】
ビルマの女たちは自由でしょうか。この問いを発する前に
ビルマの女たちたちは無能かという問いについて、まず検討
しましょう。
ビルマの女たちは無能ではありません。なるほど彼女たちは
貧しいかもしれません。高等教育を受ける機会を逸したかも
しれません。 でも彼女たちは無能ではありません。例えば
ニョウニョウティンフラの「鬱積」では、年老いた男が良か
ならぬことと知りながらそれを実行に及ぼうとします。でも
お手伝いの娘には、それを良くないことだと認識して撃退する
意気があります。
ビルマの女たちが軟弱だとおっしゃるなら、それもまた、
彼女たちの苦労に耐え忍ぶ精神と自己犠牲精神のなせる
わざだと言わねばなりません。ニョウケッチョーの「荒野の
荒れ」のように、貧困や病気にあえぐ親の苦境を見かねて、
親のため苦痛に耐える娘を軟弱だときめつけられましょう
か。
ビルマの女たちの中には、決定権を持つ地位にある者たち
もいます。それは、ミチャンウェーの「麻酔薬」のように事業を
仕切る女たちたちや、キンフニンウーの「つかの間の夢が見
たい」のように高い教育を受けエリート生活を享受する女たち
です。
でも大多数の女たちは、決定権者たる男たちに抗うことが
できません。性行為に及ぶか否か、その場合コンドームを
使用するか否か、そのような問題の決定権は男性側にのみ
あります。その結果女性が妊娠します。男性がその責任を
取らない場合、女性が汚辱にまみれ尊厳を失う事態に直面
することになります。
父親のない子を出産するか、あるいは密かに子どもを闇に
葬るか。ビルマの世間は、夫のいない女性が妊娠すれば、
女性側に非難を集中します。主犯である男性は罪を免れる
のが常です。女性を妊娠させ遺棄した男性でも、その後の
結婚の道は女性よりはるかに開かれています。
彼の体内には、ある女性を性行為によって妊娠させたという
罪の証拠は何も残留しないからです。一方妊娠したまま遺棄
された女性のほうは、もはや結婚する道が閉ざされたうえ、
彼女のおかげで親や親戚までが世間の非難にさらされます。
そんな時、妊娠した娘たちは、世間に顔向けできない人生より
むしろ死神への接近を選択するほかありません。密かに中絶
します。闇の堕胎が増加しています。母体の死亡率が増加して
います。
マ・チュープィンの「傘係」では、ゴルフ場の中年男性客に
付き添って傘をさしかけ、キャディーがいない時にはゴルフ
バッグも運ぶ娘たちのことが書かれています。ある娘は、
おしゃれをしたりご馳走を一杯食べたい誘惑に打ち勝てず、
下心で接近してきた役人に期待を抱き、彼の欲求に応じて
しまって妊娠します。
役人は所帯持ちで、娘に責任を取りません。ですから娘は
中絶します。ビルマでは中絶は非合法です。ですから普通の
診療所の大半が処置できません。そこで娘は地元の、何も
理解もせず技術にも長じていない人物のもとで中絶します。
不潔な器具をやみくもに生殖器に挿入して掻爬しますと、
敗血症に感染します。
血液中に化膿菌が侵入して、最近から分泌する毒素で急性
炎症を起こします。病院に入院しても手遅れです。そうして
娘は死ぬのです。
スエーイエーリンの「海の中の小さな帆船たち」でも同様の
問題が見られます。さらに、夫からの性行為の求めに応じら
れない妻が、夫の恨みを買い殴られる話しも語られます。
彼女は、夫から感染した梅毒による傷の炎症のため夫を
拒絶したのです。
【ビルマの女たちが主として直面する抑圧は何か】
それは家庭内における女性への暴力(ドメスティック・バイ
オレンス)です。
ビルマ人の家庭に関する一般的な調査からは、離婚率が
かなり低いことが判明します。離婚率の低さは家庭が平和で
円満であるからだと考えるむきもあるでしょう。しかし現実
はそうではありません。離婚率の少なさは、次のような理由が
見られます。
ビルマの世間では、出戻り女性(タクラツ)は非常に不名誉で
恥ずべきものだとみなされます。一方、男性離婚者は女性
離婚者よりも、世間に受け入れられ優遇されます。男性離婚者
が再婚する場合は、相手に不自由しません。女性離婚者が
再婚する場合、相手はきわめて限られます。「立派な女性が
飾る花は一輪」というビルマの格言があるのです。
夫と離婚した場合は、妻だけでなく子どもたちまで肩身の
狭い思いをします。妻が離婚を申し出ても、夫のほうは
なかなか離婚を承諾しません。夫が承諾してくれなければ
妻はお手上げです。逆に夫のほうが離婚した場合は、妻が
承諾してくれなくとも問題ありません。
夫が経済的に豊かであり、状況さえ許せば、好きなだけ妻を
娶ることが法律的に許されています。このことでは「立派な
男に女官千人」という格言があります。これは現代にもあて
はまる格言なのです。
ニョウケッチョーの「荒野の流れ」では、独身を騙る男と
結婚させられた、貧困の申し子たる若い妻の状況が芸術的に
描写されます。多数の女の存在を知った時、彼女は親の家に
帰ります。しかし彼女の母親自身が、「女というものは夫を
次々と取り替えちゃいけない。我慢して添い遂げなさい」とか、
「経済援助の大樹の陰を出るとは、親不孝で利己主義者だ」
とか、なだめすかしたりさまざまに説得して、彼女を夫の元へ
送り返すのです。
世間が出戻り(タクラツ)女性を非難し軽蔑するのを目に
した一般の妻たちは、夫と離婚したくてもそれを飲み込ん
でこらえます。自ら事業を率いている女でさえ、時には夫
に殺意を抱くことがあっても、離婚することはできません。
ミチャンウェーの「麻酔薬」は、抑制された結婚生活の
苦悩にエビの輸出事業の経験や感慨を混入して描き、技法的
にも優れた小説となっています。
【ビルマの世間は女性をどのようにみなしているか】
ビルマの世間は、女性の価値を処女性や純潔性や貞節を
基準に算定します。その女性の学歴や世間への貢献度を
基準に算定するのではありません。
ビルマの世間はまた、妻の価値を家庭維持能力を基準に
測ります。彼女の結婚相手である夫の経済力や地位を基に
測ります。
ビルマの女たちは人間関係における自分の位置を、自ら
男性の一段下に定め、その位置に甘んじてきました。さらに
一段上がることなど想像だにせず、自分の人生に不満も
持たず、「息子を主人、夫を仏と心得よ」という格言に従って
きました。
女たちは男性の威徳というものを信じています。自分たち女
は前世の行いの結果である果福(ポン)が男より低いと信じて
います。
自分のロンヂーや足など、下半身にかかわるものが、男の
使う物に触れてはいけないと考える女たちは今もいます。
男のロンヂーと女のロンヂーを一つの石鹸で洗ってはいけ
ない、洗濯機で一緒に洗ってはいけない、同じロープに干して
はいけない、同じアイロンでアイロンかけをしてはいけないと
いったタブーを守っている主婦たちはまだまだたくさんいます。
【ビルマの女たちに希望はあるか】
ビルマの女たちは法的公正や自由に希望を託そうとします。
しかし彼女たちは規範を覆すことにはまだ躊躇しています。
ですから当面は、自分たちになりかわって自分たちの感慨を
声として表現してくれる作家芸術家を頼みとします。彼らを
応援します。頭脳明晰な女主人公を尊敬し模倣します。
自分の人生に妥協したい気持ちが生じたような時には、わが子
の人生に希望を託します。
ティンティンターの「マイル標識を立てて」では、一人の
女性が娘に万全の希望を託して、自分の人生に立ち向かう
さまが見られます。自分の血を分けた子が娘である時、主人公
の心の中では、希望がより鮮明となっていきます。「自分の娘
だけは自分の被った苦悩を感じさせてはならない」という誇り
高い希望が、より堅固なものとなっていくのです。
【ビルマの女たちに勇気はあるか】
ビルマの女たちに勇気はたっぷりあります。ただ、これまでの
人生で刷り込まれた「規範への反逆は罪である」という通念の
ゆえに、それを打ち破ることの適否を逡巡しているのです。
ビルマの女たちは間違いを間違いと言える勇気があります。
多数が苦い雨水を飲んでいる時に、それを飲むことを拒否する
勇気があります。例えばケッマーの「小説にあらず」では、
精神の強靱な一人の娘と一人の男の興味深い対戦が語られます。
これは読者をとらえて離さない小説の一つです。
本書は、短編の文学性がたっぷり堪能できる単なる短編集に
とどまるものではありません。むしろ、ビルマの世間の中で
女たちが直面し、苦悩する多くの抑圧について著述された研究
調査報告集だというべきかもしれません。
本書を読み終えられた時、ビルマの女たちが真に自由であるの
だろうかという問いに対する答えを手にされることでしょう。
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ジューは1958年生まれ。マンダレー医科大学在学中の
1979年から短編小説を書き始め、卒業後医師として病院
勤務。
1987年、発の恋愛長編『思い出に』で医学生の非婚同居
生活を描いて文学界を揺るがす。以後強い自我を持つ男女を
主人公とした恋愛長編多数がベストセラーとなり、映画化、
ビデオ化される。
中流知識人青年層に強く支持され、若手女性作家への影響も
大きい。
1991年より専業作家となり、1993年に出版社も興し、
現在に至るまで長編十一編、短編五十編余、エッセー多数を
執筆。
一九九七~九八年米国留学。『ミャンマー現代短編集1』に
「漂流果実」(一九八三)を収録している。
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周縁からの発信-あとがきにかえて
【ビルマ女性作家との出会い】
訳者がビルマ文学の研究を始めたのは、激動する社会に
おける知識人の役割への関心からであった。なかでも、
反植民地闘争や抗日闘争、ビルマ式社会主義建設に
かかわった男性作家テインペーミンを、主に研究してきた。
その過程でビルマ女性の政治参加が意外に低調で、女性
政治家も皆無に近かった事実を見出した。しかし一般に、
ビルマ女性は婚姻や財産所有においては、男性と対等の
「恵まれた権利」を持ち、家庭外労働への進出も著しいと
いわれていたので、女性の問題は長らく訳者の関心の
外にあった。
八八年の新たな軍事政権の登場後、ビルマ女性や女性文学
について翻訳や解説を依頼されることが多くなった。女性作家
たちの発信するものを受け止めるにつれ、ビルマ女性に対する
訳者の従来の印象はくつがえされていった。・・・・・。
個我の存在に苦悩し、自虐的までに自己を追いつめる女性像
の背後に、男性には寛容でありながら、女性には厳格なビルマ
社会の規範の二重構造がおぼろげに窺えた。
なるほど小説世界は、言語による創出される虚構世界にすぎない。
しかしそれは、社会的、文化的意識を内在させつつ現実世界を
生きる、一個人としての書き手が構築する世界でもある。その
行間には、調査や統計記録からは窺い知れない個人の心の営み
が溢れている。とりわけ表面と水面下の落差の著しい言論統制下
の社会では、文学が文学本来の役割を凌駕する使命を帯びざる
をえない。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
八三年の国勢調査では、作家・ジャーナリスト・ライターは男性
一四四二名に対して女性二百八十名。・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
このように男性に寛容で、女性に厳格な二重規範の浸透した
社会は、女にとって危険に満ちている。独身女性の価値はその
処女性にあるから、年頃の娘を持つ母は愚母の謗り免れるべく
娘の管理を強化する。「傘係」の母は、・・・。
ビルマの世間は長幼の序を尊び、僧侶、教師、親への絶対
服従を求める。成人しても所帯を持っても、親子関係を
重んじるのが子の努めである。賢明な娘たちは、「麻酔薬」
の娘のように母の有能な片腕として危険な男社会で働き、
「荒野の荒れ」の娘のように母の理不尽な命令に屈して一家
を支える。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
ビルマ社会主義時代、権力は仏教徒慣習法の保障する「恵ま
れた女性の権利」の存在を盾に女性対策を特に講じなかった。
一方現政権は、「既得権に甘んじて国家建設から遠のいていた」
女性の動員に積極的である。彼らは、「南伝上座部仏教伝来の
文化的慣習に裏打ちされた愛国精神に満ちた女性」を求め、
彼女たちが家庭生活を向上させ、それを基礎に国家建設に
参加すること期待する。
女性団体が結成され、女性向け機関誌が創刊され、そこに
一部の女性作家も動員されている。
世間から有徳の女性と評価されるべく、ビルマ女性は家庭
維持に邁進し、社会秩序を支えてきた。そして家庭は長期
にわたる二重規範継承の場でもあった。軍事政権はこの家庭
を国家建設の重要な単位と位置づけ、日常的空間に国家的、
政治的意味づけを導入した。
それは日常描写の政治的意味合いが再認識されたことをも
意味するのであろう。権力が家庭という戦略を掲げたことで、
女性をめぐる認識が矛盾の焦点の一つとして表面化し、
女性作品への検閲の網の目がよりきめ細かくなる可能性も
考えられる。つまるところ、このようにして、女性作家の
発信は、文学界の周辺から中心に向かいつつあるのかもしれ
ない。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
二〇〇一年九月
南田みどり
南田みどり編訳『ミャンマー現代女性短編集』
(財団法人大同生命国際文化基金、2001年)
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確かにジューによるビルマにおける女性観はとても参考に
なる。だが、一度彼女自身と話し後で感じたことは、社会の
仕組みに目を向けることの注意深いジューでさえ、扱っている
題材が都市に住むビルマ族中心の女性観である。
「少数民族」として差別され、さらに女性として差別されて
いる多くの人びとを扱っていないのか?
、と聞くと。数ヶ月間チン州を訪れた時のことをエッセーに
して書いているそうだ。残念なことに日本語の翻訳はまだだ、
とか。
それは今後の楽しみとしよう。
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