"YouTube" にてオバマの勝利宣言演説を聴く。
うう、すごい。
説得力があり、分かりやすい英語だ。
さすがに、米国人でない私でも感動する。
しかし、こういう演説に実行力が伴ってないと、ホントは怖いけど。
でも、そうだからこそ、米国の大統領選挙運動は、候補者の資質を、
良い・悪いは別にして、長期間試すことになっているのか。
ま、オバマさんは頼もしそうだけど。
と、ビデオを見ていると、涙目のジェッシー・ジャクソン師も
映っていた。
で、どうやらジャクソン師は、指を口にもっていく癖があるようだ。

REV. JESSE JACKSON(1990年)
当時、イラク侵攻に反対してワシントンDCで反戦の大集会が
あった。その時に撮影したもの。
あれから18年か。
隔世の感がする。
その昔、米国の黒人文学(今なら、アフリカ系アメリカ人?)を
研究している先生から、こう言われたのを覚えている。
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町を歩いている歩いている「外国人」の姿を想像してみなさい。
「外国人」というと、まずは、Caucasianの人を想像するでしょう。
そこには、黒人という アイデアは入っていないでしょう
(もちろんアジア人も)
「外国人」の「黒人」を目にしたときに最初に頭に浮かぶのは、
「黒人」というカテゴリーであって、そこには自然と白人と区別
されている。
そういう意識は、日本で教育を受けた人の大半の反応じゃ
ないかな。
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まあ、そんなことを話していた。
黒人はまず、肌の色の黒人であって、外国人には含まれないと、
そういうことなのかな。
例えば、ちょっと前だったかな、米国の女優ハル・ベリーのことを
「天声人語」が「黒人」だと書いていた(うろ覚えだが・・・)
で、ウイキペディアを見ていると、こう書いてあった。
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アフリカ系アメリカ人の父ジェローム・J・ベリー(Jerome J. Berry)と
イギリス・リヴァプール出身の白人の母ジュディス・アン・ホーキンス
(Judith Ann Hawkins)との間に生まれる。
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でも、見た目の肌の色から、黒人として捉えられている。
半分は(っていう言い方へんだけど)白人なんだけど。
で、何が言いたいか、って。
う。
自分でもよく分からない。
つまりは、今回の日本での米国の大統領選挙を見ていて、
たぶん米国も同じかも知れないが、「初めての黒人・・・」という
枕詞がついていたように思える。
そういうカテゴライズこそ乗り越えようというのが、オバマ氏の
言いたいことではなかったのか。
しかし、彼は若い。
7時過ぎ、寝入る。
午後、中途半端に、起きる。
う~、寝過ぎかな。
確かに。
ペチペチペチペチペチと写真編集を続けて、ウエブにアップする。
あと40ページを切ったかな。
レタスいっぱいのサンドイッチを喰らう。
どちらかというと、レタスに食パンを挟むボリュームだ。
午後から曇りだという予報が、あら、晴れだ。
ぼんやりと今日の日を考える。
今年もまた、彼の命日がやってきた。
カレン民族解放戦線で戦った西山氏のことである。
「日本人義勇兵士は何故 戦うのか?」である。
http://www.uzo.net/notice/lin/freedom/freedom.htm
彼のことは、新聞や雑誌で何度も書いた。
http://uzo.sakura.ne.jp/essay/essaypdf/epdf1997/asahion/essay_1.pdf
http://uzo.sakura.ne.jp/essay/essaypdf/epdf1997/asahion/essay_13.pdf
こんなメールマガジンも出したし。
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■第11号■
「忘れ得ぬ友へ」
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「結婚しました」
ビデオテープに同封されていた手紙には、手書きで
そう記されていた。
「これで一区切りがついたな」
自分の思い込みかも知れないが、ちょっと肩の荷が下りたような
気がした。
手紙を送ってきたAさんも大変だったんだな。
手紙の文面を何度も読み返しながら、一方的な思いこみをしていた
私の方こそ反省しなければならない。
そう感じてしまった。
東京に住むAさんにこの3月、タイの知人から送ってもらった
ビデオテープの複製を頼んだ。
簡単な作業だが、あえて彼女に頼んだ。
そのビデオには、一人の友人が映っていたからだ。
ビルマの「カレン民族解放戦線」に義勇兵として参加し、その後、
違った形でビルマのカレンに関わった彼の姿だった。
その友人について以前、新聞で書いたことがある。
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日本人ゲリラ
―放っておけないから闘う―
うわさに聞いていた西山君と初めて会ったのは、マラリアが
まん延するビルマ(ミャンマー)・タイ国境のジャングルの
中だった。
ビルマの先住民族・カレン族取材のために日本で情報収集して
いたころから、武器を持って戦闘に参加している日本人が
いることは聞いていた。
ただの軍事オタクじゃないの、と言う人もいた。
現地に入り、ビルマ軍事政権に抵抗して闘うゲリラ勢力の
司令部に寝泊まりして数ヶ月、彼の名前を自然と耳にする
ようになった。
そしてある日、前線から帰ってきた西山君を目の前にした。
「どうも・・・・・」
最初に交わしたのは、そんな言葉だった。
何かよそよそしい。
無理もない。
彼だって、こんなジャングルの中で、ヒゲぼうぼうの日本人と
出会うなんて夢にも思わなかったに違いない。
しばらくはお互いに警戒していたが、狭い司令部の中に
逃げ場はない。
その日のうちに色々と話すようになった。
「そうですか、昭和30年代生まれですか。
自分も、自分の友人も、日本を出て好きなことをしている
のはほとんど30年代生まれですね。
みんな同類ですね。
関西出身ですか。
それも同じですね」
話をする中で、彼がジャーナリストに対してあまり良い感情を
抱いていないことがわかってきた。
取材するだけして、後 で何の連絡もしてこない人が多いからだ、
という。
しかし、ジャングルの中で一人生活を続ける私に対しては、
悪い印象は持っていないようだった。
うわさ通り、彼は武器を持ち、戦闘に参加していた。
しかし、 彼は強調して言った。
「自分はお金をもらって戦闘に参加する傭兵でも、戦闘好きの
武器オタクでもない。
友人であるカレン人の置かれている状況を知れば知るほど
放っておけなくなってきたんだ。ボランティアなんだ」
静かに語る彼の表情は、真剣そのものだった。
実際、彼は戦闘だけでなく、移動診療隊員として、医療設備の
ない山深くに住むカレン村民に薬を届けるといった活動も続けて
いた。
日本には数ヶ月に一度帰り、活動資金を稼ぐために建設現場で
働いたり、引っ越しのアルバイトをしたりする。慢性のマラリアに
かかっている彼は、年に何度か発熱して寝込んでしまう。
だが、この活動をやめようという気はないらしい。
これからもずっと、そうやって暮らしていくの?
彼に対して、それはできない質問だ。
それぞれの「On the Road」なのだから。
<写真キャプション>
・襲撃に備えるカレン兵 ビルマ・カレン州で(97年7月)
(『朝日新聞』大阪本社版 夕刊 1997年7月3日)
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昨年7月3日付「日本人ゲリラ」で、ビルマ軍事政権に抵抗する
カレン族の義勇兵として紹介した西山孝純さん(当時3 2)が
11月、マラリアのためタイで亡くなった。
現地で出会い、親しかったフォトジャーナリストの宇田有三さんに、
生前の活動ぶりを伝えてもらった。
<日本人ゲリラの死>
昨年11月、ビルマ・カレン族に日本人義勇として戦闘に
参加していた西山氏の訃報を受け取った。
一時帰国していた東京で、慢性のマラリアを再発させたが、
「熱帯病の治療は、タイの方が進んでいる」と、弱った体で
日本を発った。
その後、現地で肺炎を併発させ、タイ・バンコクの病院で息を
ひきとった。
彼は、カレン族との出会いを「成り行き(縁)」だったと
話していた。
大学を中退し、冒険心を抱いて東南アジアを回っていた
20代半ば、彼が出会ったのは、半世紀に及ぶビルマ辺境の
武装抵抗闘争であった。
最初は、戦場という強い刺激のある場に、生き甲斐を求めた
だけだったのかもしれない。
だが、カレン族の自由を求める戦いに参加するにつれ、彼は
カレン族を深く理解するようになった。
歴史から忘れ去れた民族の戦いが目の前あったのだ。
「カレン族というだけで略奪され、強姦され、果ては殺され
続けている」
それを放ってはおけなかった。
また、若い彼は知りたかった。
カレン族が大きな暴力に屈することなく、どうして49年間も
闘ってこれたのか。
彼がそこで見たものは、自由を求める人の力強い姿であり、
助け合う人間同士の優しさだったようだ。
タイ・ビルマ国境のホテルに滞在中、取り立てて用事もないのに、
よく彼から電話がかかってきた。
体力と気力の限界の最前線から町に戻ったとき、妙に人恋しく
なる。
自分もそうだった。
その気持ちを分かち合える人は、経験した者同士でしかできない。
平和な町を見ていると寂しさがこみ上げてくる。
今、思うに、私は彼とその寂しさを分かち合 えていたようだ。
対外的には義勇兵士としての顔を表に出していたが、カレンの
ためにさまざまな仕事をこなしていた。
日本に戻ると、建設現場や引っ越しのアルバイトをしてお金を
ため、カレンの人たちが必要とする医薬品を買ったり、子ども
たちのためにおもちゃや文具品なども買い揃えていた。
難民のお米を買うお金を都合するため、日本の援助団体を
回ったりもしていた。
ここ数年は、戦闘に参加するより、カレンの人たちと移動診療隊を
組織して、山深いカレンの村に入っていた。
実戦に参加する体力がなくなってきても、自分にできることを
精一杯やり遂げようとした。
「村には入ってくれるな、カレン民族同盟に関係する者が村に
来ると、それだけでビルマ政府軍から略奪や虐待を受ける」
医薬品を持って、苦労して山越えをしてたどり着いたカレンの
村で、村長から言われたその言葉を聞いた彼は、怒りを通り越して
悲しんだという。
カレン民族のために命を失った多くの戦友は何のために闘って
きたのか。
自分も銃を持ってきただけにやりきれなかったという。
カレンの武装闘争で、命を落とした外国人義勇兵の中には
日本人Iもいた。
彼は、I が自分より先に逝ったことに負い目を感じていた。
I をカレンの101部隊に紹介したのも彼だと聞いている。
それもあって、どんなつらいことがあってもカレンから手を引く
ことができなかったようだ。
先に逝った多くの戦友に少しでも近い現地で仕事をする必要性を
感じていた。
人は「死に方や場所を思い通りに選ぶこと」をできない。
前線に立ってきた彼は、敵・味方にかかわらず多くの死を
見てきた。
それだからこそ、自分は「生きる場所と時間を選択した」と
書き残している。
自分を追い込んだ生き方だった。
私は彼の具体的な行動に純粋さを感じる。
日本人を知っているカレンの人が真っ先にあげるのは彼の
名前だ。
現在のビルマ軍事政権に与する日本企業のことが現地で話題に
出るとき、私には彼の存在が唯一の罪滅ぼしだった。
彼は、カレン族の実状を知ってもらうために、パソコンでホーム
ページ作りに夢中になっていた。
日本に戻ってパソコンの使い方が分からなくなると、時間に
見境なく、真夜中であっても電話をかけてきた。
深夜2時、3時であろうと容赦はなかった。
今でも、夜遅くまで起きていると、彼からの電話が鳴るような
錯覚にとらわれる。
彼の遺灰の一部は、タイ・ビルマ国境、カレン州にもっとも近い
モエイ河に流された。
<写真キャプション>
・難民キャンプを撮影する西山孝純さん=タイ・メソットで
(九七年六月一〇日撮影)
(『朝日新聞』大阪本社版 夕刊 1998年2月5日)
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11月6日。彼の4度目の命日が近づく。
生存中の彼にはさまざまな人物 が接触してきていた。
仕事上のつき合いもあったろうし、個人的に仲良くなった
人も大勢いた。
97年の納棺時には、交友関係の広さを物語っていた。
しかし、翌年からは少しだけ寂しい集まりになった。
彼の墓や実家を訪れる者は極端に減った。
そうか、あの人も来ないのか。
そんなに簡単に忘れてもいいものだろうか。
寂しさを通り越して、悲しみさえ覚えた。
しかし、各人、それぞれに事情があるだろう。
私はそう納得させた。
でも どこか、釈然としなかった。
それでも98年には、彼を慕っていた人は集まった。
東京で雑誌を出しているB氏やフリーランスフォトジャーナリストの
大御所C氏も顔を見せた。
彼の後を引き継いで義勇兵をしていたDもいた。
彼から話を聞いていたAさんとは98年、初めて会った。
さらに、それから1年が経過した99年、彼は過去の者として
忘れ去られようとしていると感じた。
命日の前後、彼のもとを訪れたの数はさらに少なくなっていた。
私のようにこだわり続けるのはおかしいのかも知れない。
しかし、彼が関わり続けたビルマのカレンの状況が変わらない
限り、私は一年に一度、現地を訪れ、墓参りをする以外、彼を
偲ぶ方法を思いつかない。
そして、彼の実家を訪れるたびに感じる、彼の父親と母親の
無念さを忘れるわけにはいかない。
石川文洋氏は、『戦場カメラマン』(朝日文庫)に記している。
「人間は孤独であると思う。人の死も、ごく近い肉親以外は、
時がたてば記憶からうすれていく。死とは全く寂しいものだと
思いながら、それなら自分に妥協しながら生きているということが
素晴らしいのか-ベトナム仲 間の遭難にあって、私には人生が
わからなくなるのである。
(『週間朝日』1971年2月26日号)
その通りだった。
彼の実家に飾られている写真の一枚には、彼とAさんとが
仲良く写っている写真が飾られている。
二人して楽しそうにこっちを向いている。
だからこそ、Aさんはもう来られなかったのだな。
おそらく私よりも長く、深く彼を理解しようとしていたからこそ、
京都に来られなかったのだろう。
私はそう理解している。
それでも、どこかで割り切れない部分があったのも事実だ。
頭でそう分かっていても、心のどこかで、「でもなあ~」って
思っていた。
昨年の11月、彼と知り合いの新聞記者を含め、彼の存在に
ついて噂だけは知っている記者と一緒に墓参りをした。
お父さんやお母さんから、ビルマの状況、カレンの状況を
聞かれるのは辛い。
また、彼の後を引き継いで、本来なら活動しているはずの
「移動診療隊」のことについて話をするのも辛かった。
久しぶりに東京を訪れた昨年春、東京駅構内の騒がしい
喫茶店でAさんと 再会した。
2年半ぶりだったかな。
ビルマのこと、カレンのことを話した。
だが、ヤツのことについては話ができなかった。
今、日記を読み返してみても、作為的にこのことに触れて
いなかった。
私もどこかで彼のことを触れてはいけない、そうしてはいけない、
そんな気分であったのかも。
また、彼ほど純粋に「志」をもてずにいる自分を責め、引け目を
感じていたのかも知れない。
そんなこともあり、残酷なことに、Aさんにビデオの複製を
頼んでしまった。そうして半年。何度かメールのやりとりが
あった。
私も折に触れ、「あのビデオテープの複製、どうなりましたか?」
そんなことで済ましていた。そうするうちに次の11月6日が
近づいてきた。
もうそろそろという気持ちで、ビルマから帰国したこの9月、
再度、問い合わせの連絡をしてみた。
「テロ事件」で慌ただしい中、返事があった。
「明日の朝、届くように手配しました」と。
さらにAさん自身、同じ報道に関わる人間として、急に脚光を
浴びたアフガニスタンのことに言及しつつ、一貫性のない
メディアを嘆いていた。
かつて彼がメディアの報道姿勢を嘆いていたように。
10月1日の深夜、そう、昨日の夜、ひとりで、戻ってきた
ビデオを見た。
久しぶりに彼の声を聞いた。また、重たそうに荷物を持って
歩く彼の姿を見た。
性格は几帳面で器用だったが、生き方は不器用だった。
また、お世辞にも真っ直ぐな生活態度ではなかったしな。
それに、回りのから見れば眉をひそめることも、2人だけで
しでかしたことも思い出した。
おそらくAさんは、機械的にこのビデオを複製したのでは
ないであろう。
きっと、彼の一挙一動を見たことだろう。声を聞いたことだろう。
そう思うと、なんとひどいことを私は頼んでしまったのだろうか。
私は、今は天国にいるだろう彼に、「済まないないことをした」、
と謝った。
でもなあ。AさんはAさんで今、一つの区切りをつけ、新しい
人間関係をスタートさせたんだな。
お前とはもう関係がないのかもしれないなあ。
でも、いつの日かAさんと一緒におまえの墓参りに行けたら
いいなあ。
ビデオでお前の姿を見ながら、そんなことを思ったよ。
おい、聞こえているのか?
今回は、本当に「独り言」になってしまった。
http://www.uzo.net/mag/mag_011.htm
(リンクや日時は当時のまま)
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ビルマのカレン民族のことに関わっていると、今でも時々、
西山氏の名前を聞くことがある。
さらにまた、「義勇兵」という響きを忘れられずに、かつて
ビルマのカレンの抵抗闘争に関わった人も、まだまだ、なにやら
おかしい行動をしていると伝え聞く(知っている人から見れば、
おかしいんだけど)
もし、歴史や時間に繋がりや継続性があるとしたら、彼らは
西山氏の存在をもう一度考えて行動して欲しいものだ。
(もちろん、自分も含めてだけど)
さて、毎年、彼の命日の前後には墓参りに行くが、今年は
どうしたものか。
最近、カラカラ天気が続くと思っていたら、夜になると雨が
降ってきた。
なんかしんみりしているなあ。
この雨を境に、冬がやって来るのか。
なんかなあ。

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