爆睡していたはずなのに、何故か4時過ぎに目が覚める。
取り立てて何かを信じているわけではないが、震災の日を
キチンと迎えよ、ということか。
しばし朝刊に目を通す。
5時46分、神妙に大地震から14年目を迎える。
しばし黙祷。
それにしても、あれからもうこんな時間が経ったのか、という感じ。
この間、地震時のことを何故か深く考えていなかった。
というか妙に考えるのを避けていたような感じもする。
でも、1995年1月17日の地震時のことはしっかりと身体が
覚えている。
ドンと突き上げる衝撃。
瞬時に、ゴォー(ごぉぉおぉー)という衝撃と揺れ続いた。
(こういう場合の体感は、なぜかひらがなが似合う)
14階建てのマンションの最上階14階の部屋だったため、
そりゃ揺れましたよ。
当時のパートナーをしっかりと抱きしめていたという記憶がある。
大丈夫だよっ、と。
でも、ごぉぉっっは恐ろしかった。
一瞬、あっ、倒れるか、と思った。
同時に、あ、これは夢か、とも。
どのくらいの間揺れがあったのか覚えていない。
長かったような、短かったような(ん? 冷静じゃなかったのか)
今の仕事をしていて良かったと思うのは、どんなことが起こっても
なぜだか頭は冷静に保っていることができることだ(ま、ある程度
だけど)
非常時にアドレナリンが想像以上に身体の中を駆けめぐり、何が
安全かそうでないか判断し、本能的に身の安全を確保しようとする
ことだ。
数十秒の揺れの後、すぐに脅威は去ったと理解できた。
とりあえず逃げなければ。
近くの公園へ避難する。
ちょっと回りを歩いてみる。
地面が割れて、地中から砂が吹き上げた後がある。
これが(後で知る)液状化現象だった。
さ、起こったことは仕方ない。
部屋に戻って片付けを始めた。

散らかった食器を片付け始めたっけ。
淡々とした数時間が流れるだけだった。
14年後にツラツラこんなことを思い出しても仕方ないのか。
でも、そうでもない。
新聞の切り抜きを始めて20数年。
これまで日本で目にした最高の新聞記事が、この震災関連の
記事で出稿されたことを改めて思い出すからである。
あの記事どこにやったかな?
気になって、ファイルボックスをひっくりかえす。
う~ん、見つからない。
大切な記事だからどこかに入れてあるはずなのに。
昔の切り抜きをひっくりかえしながら、嗚呼懐かしい、と思える
この20年の切り抜き記事が出てくる。
網野善彦氏が林屋辰三郎の追悼文を書いていたり(98年2月16日)
ああ、懐かしい。
子どものうた。
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●しかられてしばらくたった後、
「トントン」と言って母の背をたたく。
「なあに?」と母。
「優しいお母さん、出てきてくださーい」
(3歳)
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何かしら微笑ましい。
で、この20年分の切り抜きに目を通しながら思う。
経済にしろ、自殺の問題にしろ、政治にしろ、20年経っても
今の社会状況とあまり変わっていないようだな。
それにしても捜し物の記事が出てこない。
と、その昔探していて見つからなかった震災の関連記事が出てきた。
「鎮魂歌1 震災の構図」(1995年2月17日)である。
震災から1ヶ月後のルポ。
「三途の川を渡るなよ」という見出しの記事に思わず胸が
熱くなったのを思い出した(今も読み直して熱くなる)
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救出作業をしていた人たちに、二人の体が見えるようになった。
佐智子は和だんすの下に、浩一の腰は太さ二十センチほどの、
十字になった梁(はり)の結節点の下敷きになっていた。最初に
佐智子が引っ張り出されたが、なかなか出られなかった。右足に
浩一の右足がプロレスの卍(まんじ)固めのように絡まっていた
ためだ。互いの足の骨と骨とがこすりあっていた。
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その様態を想像して、思わず息をのんだ。
もう一本の記事。
「被災したあなたの手紙に」という取材記者(稲垣えみ子)氏の
「記者ノート」(96年11月13日)である。
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私はそれまで、相手の気持ちがわかってこそ、初めていい記事が
書けるなどと考えていました。でも人の気持ちなんて、ほんの少し
でも分かってしまったら、話しかけることもできないのです。記者
失格でした。今までの私は、何をやってきたんだろうと思いました。
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自分も自信を経験して、まったく同じ思いであった。
知り合いを通して米国から連絡が来た。
通信社の受け入れはできるか、と。
被害は大きくなかったけど、被災者としてちょっと冷めてしまった。
だからほとんど写真を撮っていない。
ま、この震災の経験は、自分のその後の取材人生の何かを確実に
変えたと思う。
そんなことをツラツラ思いながら、求める切り抜き記事を探し
続ける。
が、見あたらない。
本棚のファイルボックス。
本棚の上のファイルボックスにもない。
う~ん、どこにしまったんだ。
仕方ない。
あきらめとするか。
原稿を書くために机回りを整理整頓と掃除。
おお、ツタヤが半額セールだった。
ビュンと出動。
本屋で雑誌を立ち読み。
う~ん、面白くない。
本誌も分量も薄い。
久しぶりにJMで買い物。
ブラジル産コーヒー(500g)が298円だった。
さて、どんな焙煎と味なんだろう。
ファイル整理をしていたら、読みたい本や聴きたい音楽の切り抜きが
出てきた。
テッカトウニョウメイ『平和のうた』を注文。
永久保存盤 軍艦マーチのすべて 行進曲; 海軍軍楽隊 を注文。
身体が重たい。
ゴロンと仮眠。
ふぅ。
Paul Newman の "THE VERDICT"(『評決』) を見る。
1982年の映画だ。
映画館で見て、その後VHSビデオでも何度も見直した。
かなり感動した映画である。
それから8年後、この映画の舞台となった米国ボストンに暮らす
ことになるとは思わなかった。
ボストンには2年弱しか住まなかったが、言われてみれば
「青春の街」でもあった。
極貧の生活ではあったが、充実していた。
アレン・ギンズバーグに会ってサインを貰ったのもこの街だった。
ラビン首相、ゴルバチョフ元大統領、ジャクリーン・ケネディ、
メグ・ライアンなどの写真を撮ったのもこの街だった。
いろんな恋をしたのもこの街だった。
挫折しても復活できると信じたのもこの街だった。
落ちても、堕ちても、はい上がることができたのもこの街だった。
映画を見ていると、自分も何度も足を運んで、見慣れた風景が
出てきた。
雪におおわれた「ボストン・コモン」であったり、その裏通り
であったり。
『評決』のラストシーン。
何度見ても、面白い。
なにかしら、場面設定や内容はまったく異なるが、雰囲気的に
『ニュー・シネマ・パラダイス』に通じるところがある。
映画を見ながら、いつも入り込んでしまう。
電話が鳴る。
が、受話器を取るな、と。
人生にハッピーエンドはないのだから。
布団に入って、思い出した。
あ、あの探していた新聞記事の切り抜き、あそこかな。
で、深夜にゴソゴソとファイルを繰る。
と、出てきた。
意識して新聞を読み始めて30年間。
私が最高の新聞記事と思うのがこれである。
見開き一面が名前で埋まっている。
震災で亡くなった人びとの氏名である。
1995年1月20日付けの朝刊(『朝日新聞』)

( ↑ クリックすると拡大します)
衝撃的な紙面である。
この紙面の前も、後も、名前でいっぱいなのだ。
警察発表を元にしているとはいえ、ただ単なる文字ではない。
ひとり一人の暮らしがあったんだ。
そう思うと、胸が詰まる。
『読売新聞』(1995年4月26日)も同じである。

( ↑ クリックすると拡大します)
こちらの方は、紙面編集を担当した木村未来記者が一文を
添えている。
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どうか安らかに
一月十七日の震災の震災から百日。
瓦礫(がれき)が残る被災地にも春風が吹き、街が、人が
再建に頑張っています。
震災直後から、お亡くなりになった方々の名前を確認する
担当となりました。そのお名前は、五千五百一人にのぼりました。
一人ひとりが生きた証(あかし)と無念さを感じ、人生に思いを
はせました。
それぞれの夢が一瞬にして奪われた事実を、この悲しい紙面が
物語っているのです。
「息子夫婦が阪神大震災の犠牲になったことを、子孫に
伝えたい。記憶を薄れさせないことが、私たちの努めです」。
淡々と語る母親の声が、今も耳に焼きついています。
冬から春へ。五千五百一人のさまざまな思い出と付き合って
きたような気がします。どうか安らかに、力強く立ち上がる者の
歩みを見守っていただきたいと切に思います。
(木村未来記者)
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ついこの間、あるコラムで、「新聞とは、見開きの完結したメディア」
だと書いていた。
確かに、見開きのメディアであり、完結したメディアである。
この紙面という、形をもったメディアに印刷された数え切れない
名前には圧倒される。
紙面に見るのは、事実の羅列だが、単なる事実ではない文字の連続。
何をかいわんや。
その後、1999年のトルコ地震を取材したが、現地の新聞では、
これだけ詳細な名前の載った新聞記事を見かけることはなかった。
それゆえ、今後、こんな新聞紙面を見ることは、ないであろう。
(そうあって欲しい)
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