7時過ぎ起きる。
パタパタと荷物整理。
久しぶりの良い天気。
ピーカンの青空。
それに、空気も冷たくない。
さ、机の前に座って、仕事に取りかかるが、う~ん、集中できん。
こまったなあ。
ずるずると机上整理など。
14時過ぎ、ゴロゴロと出動。
ま、そんなもんか。
不景気の余波、少なすぎるよ。
ぽっちだよ。
システマティックにびくり。
と、偶然、M新聞社のFさん一家に遭遇。
ユージン・スミス、アイリーン・M・スミスの写真集『水俣』の
コピーを読んで胸を振るわせる。
うう、すごい。
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写真はせいぜい小さい声にすぎないが、ときたま ― ほんのときたま―
一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ます
ことができる。
写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考の
触媒となるに十分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちに
あるもの ― たぶん少なからぬもの ― は影響を受け、道理に心を傾け、
誤りを正す方法をみつけるだろう。そして、ひとつの病の治療の探究に
必要な献身へと奮いたつことさえあるだろう。そうでないものも、
たぶん、われわれ自身の生活から遠い存在である人びとをずっとよく
理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声で
ある。それが唯一というわけではないが。私は写真を信じている。
もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが、
私 ― そしれアイリーン ― が水俣で写真をとる理由である。
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水俣病の発生とその後の経過を見ると、水俣は終わったわけでは
ない。けれど、ユージン・スミスの、アイリーン・M・スミスの
写真は物を言った。
手元にはそのコピーと、村上春樹『やがて哀しき外国語』もある。
そのあとがきも読ませる。
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どれだけ自分の視点と真剣に、あるいは柔軟にかかわりあえるか、
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個々の部分に傍点が振ってある。
それだけ強調したいのであろう。
ここの部分、共感できるような気がする。
ちょうど一昨日、米国にいる友人の写真家と、写真を巡って簡単に
メールをやりとりしたからだ。
うむ。
で、手元には、自分の書きかけの原稿もある。
前2つと自分の原稿の落差に、泣きそうになる。
でも、しかたないもん、違うもんはちがう。
がんばろう。
うん
予定通り。
・・・にはイカン。
・・・・・。
・・・・・。
もう眠たい、ち。
3時過ぎだもの。

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