民族と信仰と宗教

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 ロヒンギャに取り組んで頭を悩ませているのが、
 民族と信仰(宗教)との関わりである。
 
 過去、ビルマ全土を歩き回って、その地域に住む人びとの
 帰属意識を(ビルマ語で)聞いてみたことがある。

 「あなたは何人(何民族ですか?)」と。
 (=〝バー・ルミョー・レー?〝と)

 その返事は、「バマー・ルミョー(ビルマ人)、
 カチン・ルミョー(カチン人)
 チン・ルミョー、シャン・ルミョー」という返事であった。
 (ルミョー=人、民族)

 しかし、イスラームを信仰している人びとだけは、
 「ムスリム」という答えが返ってきた。
 つまり、彼らの民族意識は、「ムスリム人」であった。
 
 その返事から感じたのは、彼らの民族のアイデンティティーは、
 文化・生活風習・伝統生活を共同体とした民族意識ではなく、
 信仰がまず第一にあるようでった。

 イスラームという信仰を持つ者がイスラム人であった。
 
 これはユダヤ教を信奉する人びとを「ユダヤ人」と呼ぶのに
 似ているようだ(「ユダヤ人」という定義も時代と共に変遷して
 いるので、それはそれでややこしい)

 キリスト教徒のカチン人がイスラームに改宗したらその人は、
 果たして、カチン人という意識とムスリム人という意識のどちらが
 優先されるのだろうか。

 実際、ロヒンギャの難民キャンプでムスリムの男性と結婚した
 仏教徒のラカイン人女性にインタビューする機会があった。

 彼女は、今はムスリム人となった、と言っていた。
 つまりは、彼女は(仏教徒の)ラカイン人という意識から(イスラーム)の
 ムスリム人という意識へと変わったのだ。

 だが、その反対の例は今のところないようだ。
 ロヒンギャ=100%=ムスリム なのだ。

 ビルマ国内で定義されてきた民族の区別(大きく分けて、ビルマ・
 カレン・シャン・ラカイン・モン・チン・カレン・カチン)と
 宗教と「民族」「民族化」が混在している。
 うーん、うまく説明できない。

 そういう実態がある現在、「ロヒンギャ」を改めて「民族」という
 存在としての認知を求めようとしている(ようにも思える)

 例えば、ビルマ国内には中国系のムスリム(回教徒)を通称、
 「パンディー」と呼ぶ。
 「パンディー」は民族名ではない。

 ただ、民族が自らの名乗りによって決定されるという立場に立つと
 ロヒンギャも民族として存在しうる。

 と、本棚にあった「ユダヤ文化論」などを取り出してみた。
 ふむふむ。


 非公式キャンプ内のモスクにて。

  _DSC1209.JPG
 こうやって礼拝中の様子を後ろから撮影するのは、それほど
 難しくない。

 
  _DSC1206.JPG
 が、こうやって前から撮影するのはちょいしんどい。
 
 だって自分のお尻を彼らの礼拝の方向に向けているのだし。
 (だから身体をずらして、できるだけ斜めに座るようにしてます)

 

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