約4ヵ月分の新聞の切り抜きを済まし、いくつか気になった記事を読み直す。
自分の取材対象でもあった元「慰安婦」のことを再考せざるを得ない。
元「慰安婦」の問題は、先のアジア・太平洋戦争だけの問題ではない。
これは日本の朝鮮支配、1910年からの「植民地支配の産物」なのだ、ということである。
取材記者自身がそのことに気づいていないと、その報告も自ずと限られてくるだろう
(自らへの反省を込めて)
というのも、1000回目を迎えた「水曜日集会」を報告する際にも、当事者である元「慰安婦」に
直接しようとする日本のメディアがほとんどいなかったことである
(私自身がその場にいたというから、というわけではない)
「水曜日集会」1000回目の記事は、あくまでも題目は、日韓関係が主であるようだ。
また、『毎日新聞』は社説で、「日本側にも道義的な責任はある。」としているが、
これはあくまでも「法的責任を否認するつあめのレトリックとして機能している」としか読めない。
つまり、
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「法」が未整備であった状況での犯罪、あるいは「法」の主体となることを
歴史的に否定されてきた人々に対する犯罪、これに現存する「法」の範囲を
超える犯罪の責任を問い、補償を行っていくためにこそ、「法」の上位の概念
としての「道義」が問題となるのである。そして、場合によっては、このような「道義」の
認識にもとづいて新たな立法が行われ、「道義的責任論」が新たな「法的責任」を
生み出すことにつながる。
(徐京植『植民地主義の暴力』高文研、2011年)
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「水曜日集会」1000回目を迎える前夜、「ナヌムの家」のラウンジにてテレビに見入るハルモニ
(ハルモニの部屋にはそれぞれ、個人用のテレビをもっている)
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